堀込 玲 さん

略歴

東京都立武蔵丘高等学校卒業

1996年 外国語学部言語学科イタリア語専修卒業、イタリアの専門商社入社
1999年 『旅の指差し会話帳6イタリア』を情報センター出版局より出版
2000年 イタリア、ミラノ駐在
2004年 帰国
2005年 イタリア・パルマに本社をおくパスタメーカー、バリラG&R社の日本支社、バリラジャパン株式会社入社 日本駐在。
現在に至る
(2007年10月現在)
第一志望である京都産業大学外国語学部に入学したものの、すぐに後悔した。
東京生まれの私は追分寮に入り、外国語学部以外の人たちからいろいろ話を聞くと「外国語学部なんか出たって就職がない」と言われ、「4年後には仕事すらないのか」と不安になった。
こうなったらこの4年間でイタリア語ができるようになるしかないと思い、勉強をすることにした。
まず全ての1回生のテキストを夏までに全部やってみた。すると驚くことに半年後の夏休みになっても全く進歩がなかった。それどころか、クラスでの成績は真ん中くらいだった。

今なら冷静にアプローチが悪かったのだとわかるが、当時は情熱と根性だけで勉強のやり方がわかっていなかった。わかったことは、自分には語学の才能がなかったということだけだった。
その当時は後にえらそうにイタリア語の本を書いたり、イタリアの企業で仕事をするようになるとは想像していなかった。
しかし語学の才能がなくても語学ができるようになる大切なことに気がついた。

イタリア駐在中に空手道場に通い始めたが、空手にはこのような言葉がある。
「空手の修行は半紙を重ねるようなものである」
稽古という半紙を一枚重ねても、一枚取っても気がつかないが、それが百枚になった時に、人はその積み重ねてきたものの重さに気づく・・・。
私にとって語学を勉強することは、半紙を重ねることであった。
やること、そして続けること、それが才能以上に大切なことなのである。
当時から才能もなく、要領も悪かった私は、とにかく質より量で格好悪く勉強した。
しかし相変わらずできるようにはならなかった。
わからぬままに原書を読み、ライブラリーにあるイタリア映画を全て観て、イタリアンレストランにイタリア人がいると聞けば洗い場に入った。

そうこうするうちに京都北ロータリークラブの奨学金で3回生の時にフィレンツェに留学させてもらえることになった。この留学システムを知ることができたのは産大の先輩方のおかげであり、京都という歴史的文化都市で学ぶことができたおかげでもある。
念願の留学でも、たいして勉強していないのに母国語が似ているからどんどん上達するヨーロッパ人を羨みながら、また要領悪く勉強を続けた。

フィレンツェでは、多くの天才を生み出したルネッサンスという時代に興味を持ち、語学学校でルネッサンス文化の講義を受けた。
その講義は語学の先生ではなく、初老の高校の哲学の先生が教えにきていた。
その先生は最初の授業で
「レイ、君の彼女が暴漢に襲われていたとする、君ならどうする?」
「やめろ、と注意します」
「それでもやめなかったらどうする?」
「・・・・・・」
「レイ、その時にはそいつらを殴ってやめさせるんだ」

これが哲学の先生の答えかと衝撃を受けた。
非暴力だの理想だの通用しない剥き出しの人間の生き方は、今になればそれはルネッサンスの真髄と通じるものがあることに気づく。

京産大に復学して卒業の直前、大阪でモーダ・イタリアというアパレルの展示会があり、そこで一日通訳のバイトをした。今思い返せば詐欺みたいに下手な通訳だったが、私はその日の感動を今でも覚えている。「この4年間を無駄にしたくない」と思って過ごしてきた自分にとっての卒業式だったと感傷的に思い起こす。入学し、4年の月日が経ち、卒業をする。ただの空っぽなガキが、4年間でまがりなりにもイタリア語の通訳ができるようになったのだ。
卒業後、東京のイタリア専門の輸入商社に入社し、4年目の年に『旅の指差し会話帳6イタリア』(情報センター出版局)を出版した(シリーズ200万部以上を記録)。
本を書くようになったきっかけは、たまたまライターを紹介してほしいという編集者と知り合ったのである。紹介する代わりに立候補し、8人の候補者の中から選んでいただいた。ちなみに採用基準は「語学があまりできない人」だったそうだ・・・。つまりは、イタリア語が完璧であることよりも、トータルでおもしろい本を作れる人、と私は良いほうに理解している。学生時代、イタリアに関することならなんでも興味を持ち調べたことが、この本の中には多く詰まっている。

翌年から4年間、ミラノに駐在した。イタリアに行くと私よりイタリア語のできる連中がたくさんいて、語学を究めることよりも、自分の一生かけてやるべき専門分野を模索し始めた。小さいながらも総合商社だったので幅広い分野の中から、「食」という分野に惹かれつつ、帰国した。

2005年、以前から私淑していた今の社長から声をかけていただき、イタリアのパスタメーカー、バリラG&R社にて本社面接して、バリラジャパン株式会社にて日本駐在となる。 事業内容は「ブランドの管理全般」となっているが、現実は皿洗いから通訳まで仕事は選ばない。
私は業務用担当ということで、主に都内のレストランへの営業販促、プロ向けの料理講習会運営がメインであり、新たな試みとして、国内の希少品種の在来食材や生産者の保護を目的とした支援活動を行っている。つまりは「うちのパスタは美味しいですよ、安いですよ」と言って売るのではなく、良い商品を顧客、業界、社会への意義や貢献を通してブランディングしている。簡単に言えば「お前のパスタ使ってみたいからもってこいよ」と言って貰う仕事である。

入社翌年、2006年フォーブス社が発表した「世界で最も評判の良い企業(Reputation institute調べ)」でバリラホールディングスが1位に選ばれた(ちなみに2位はレゴ、日本企業ではトヨタが6位だった。私が入社したら1位になったというのは偶然とは考えにくい・・・、と思う)。
同じ年、私事として『旅の指差し会話帳6 イタリア』DVD版を出版(全く売れていない・・・)。
またしても私事として2007年のうちに構想?5年??『旅の指差し会話帳・イタリア』の『食べる』版を出版予定(自腹で何度もイタリアへ取材に行き、2年以内に絶版になると確実に赤字・・・)。

在校生のみなさんに伝えたいことは、勉強しなさい、ということです。
ここに寄稿している卒業生はみんな相当勉強して、自分のやりたい仕事に就いています。
卒業すれば、生活の大半は仕事に費やすことになります。好きな仕事に就かないと、それなりにしんどいです。好きな仕事がわからない、ということもあるでしょう。それでも自分の人生と向き合えば、いつか出会えるはずです。そして世の中は案外望んだことが実現するもんです。
私もみなさんの模範とはなれなくても、自分の望んだことは形にしていくことで、外語卒業生として少しでも波風を立てたいと思います。
PAGE TOP