安達(旧姓 松岡)紀子 さん

略歴

1983年 京都産業大学外国語学部ロシア語学科卒業
(2009年3月現在)

 私がここに書くメッセージは、メッセージというより、ひとりごとに近いものになるかもしれません。退屈することが怖くない方、ぜひ最後まで読んでください。
 私は13歳のときに『戦争と平和』を読んで以来、ロシア語を専攻することを心に決めていました。そのとき、ロシア以外に私の人生はありえないと強く感じました。『戦争と平和』は聳え立つような大作で、壮大な、雄大な、歴史のうねりと民衆の息吹が聞こえてくるような作品であると同時に、ロマンティックな抒情、きらめくような憧憬がそこかしこに散りばめられた珠玉の名作でした。アンドレイ公爵とナターシャの恋にどれほど憧れたことでしょう。しかし何よりも惹かれたのは、生と死に対する深い洞察、哲学でした。「死は目覚めなのだ」という言葉に、13歳の私は精神的に目覚めました。
 大学に入る前に『戦争と平和』を4回読みました。工藤精一郎(2回読んだ)、米川正夫、中村白葉の訳で読みました。訳者によって作品の雰囲気が変わることを感じ、ぜひともこれをロシア語の原文で読みたいと思いました。
 ドストエフスキーにも夢中になり、中学3年生の夏休みに『カラマーゾフの兄弟』の感想文を原稿用紙に30枚も書き、夏休み明け、先生に誉められました。

 勉強したい気持ちであふれていた私にとって、約30年前に私が入学した京都産業大学は悲惨としか言いようのないところでした。真面目な学生は少数派で、レベルがとても低かったのです(今はずいぶん大学のレベルも上がったそうで、私も嬉しく思っています)。私はそんななかで、ほとんど死ぬ覚悟でロシア語を勉強しました。今から思うと、自分の真面目ぶりが笑えてきますが、当時の私はロシア語ができるようにならなければ、私は死ぬしかない、と思っていました。どんなに忙しい日も最低4時間はロシア語を勉強すると決めました。日曜日などは外出もせず10時間ロシア語を勉強するという日も珍しくありませんでした。でも、楽しくて仕方がなかったんです。ロシア語のひびきを私は心から愛しました。ひびきと共に、激しく、強烈に意味を伝えてくる、いくつかの感情に満ちた言葉を熱烈に愛しました。魅力的な言葉の結合、美しい川の奔流のような流れをもつ文章に心から夢中になりました。
 そうです! 大学時代はとにかく勉強してください。とくに語学の学習は大切です。本を読み、美術館に通い、劇場、映画に通う、ということをなるべくしてください。身体を動かすことも大事ですね。それからいちばんのお勧めは、何か楽器を演奏することです。ピアノ、ヴァイオリン、ギター、何でもいいです。音楽にも夢中になってほしいですね。私は学生時代、ロシア語の勉強と読書以外ほとんど何もしませんでしたが、今から思うと、もっと芸術に触れておくべきだったと思います。とにかく、若いときも、熟年をすぎても、老年といわれる年齢になっても、自分を豊かにすることを考えて、楽しく明るく生きることがいちばんだと思います。
 さて、私は大学院に進みました。早稲田大学の大学院、露文専攻の修士課程に進みました。とにかく文学が大好きでしたので、ほかの道は考えられませんでした。チェーホフを研究しました。修士の2年間は文学理論を勉強したり、修士論文の資料を読んだり、とにかく論文を書くために生きていたようでした。私の人生にとっていちばん辛い時期のひとつでした。トルストイ、ドストエフスキーはあまりにも巨大な作家なので、わかりやすく、美しい文章を書く、手が届きそうな作家チェーホフを研究しようと思いましたが、研究するには本当に難しい作家でした。まともに攻めると、手からするっと抜けていくような、アイロニカルな不思議な作家、それがチェーホフでした。さんざん苦しんで『三人姉妹』の修士論文を書きました。チェーホフは日常生活を通じて人間の本質を描き出した凄い作家だと思います。
 大学院を卒業して、私はロシアのモスクワに住みました。結婚した夫が商社に勤め、モスクワに赴任したからです。このときから、私の本当の人生が始まりました。住んですぐに朝日新聞の通訳の仕事が舞い込んできましたが、ロシア語だけはよく勉強していましたので、そのときは何の苦労も感じず、難なくこなしました。それに続き、映画、演劇関係の通訳をし、とくに演劇には夢中になりました。ロシアの演劇は非常にレベルが高く、優れた芝居が連日上演されていますので、劇場にたくさん通いました。ロシア人の友達もいっぱいできました。人生について深く考え、歴史、運命、哲学、生と死の意味についていつも語り合っているロシアの人たちが、私にはとても近しく思えました。1986年から1992年までモスクワで暮らしましたが、それはちょうどペレストロイカからソ連邦崩壊までの激動期で、私はロシアの友人たちと共に社会、生活の変化を目のあたりにしました。モスフィルム、マールイ劇場など映画・演劇関係の通訳をしたり、朝日新聞でソ連邦崩壊が始まるまでの二年間、専属通訳として働いたりしました。
 帰国後、『モスクワ狂詩曲』(新評論)という本にその体験をまとめました。若い皆さんにぜひ読んでいただきたい本です。
 日本に帰ってから、原子力安全研究協会というところで、通訳、翻訳の仕事をした時期もありましたが、早稲田大学大学院の博士課程に入学し、ふたたびチェーホフの研究を始めました。このころからモスクワに1年に1,2回芝居を観るために行くようになりました。『悲劇喜劇』という雑誌にモスクワの演劇事情について書くようになりました。1998年ロシアの文化、歴史、芸術について『モスクワ綺想曲』(新評論)という本を出しました。ロシアについての本を書くというのが大学時代からの夢でしたから、その夢が現実になったわけです。この二冊目の本に対して、早稲田大学で小野梓芸術賞をいただきました。それに続き、ロシア文化省からプーシキンメダルを授与されました。これは国家レベルのメダルで、日本の文化勲章にあたるかもしれません。
 本としてはあと一冊『ゲルギエフ――カリスマ指揮者の軌跡』(東洋書店)を書きました。翻訳はとしては『三人姉妹』(チェーホフ)を群像社から出しました。あと共訳で未来社からスタニスラフスキーの『俳優の仕事』第一巻、第二巻を出しました。日本ではじめてのロシア語からの直接の翻訳ということで、日本の演劇人から注目を集めています。
 仕事としては早稲田大学、桜美林大学オープンカレッジ、立教大学でロシア演劇の講義をしたり、ロシア語を教えたりしています。
 いまは演劇に興味を持ち、自分で演技の勉強もしています。ピアノを弾き、作曲をし、歌も少し習っています。これらの趣味はどこかでロシアと繋がっています。ロシアに夢中になったため、私は一時期、演劇や音楽から離れていましたが、演劇、音楽関係の通訳をする機会が多く、ロシアのおかげでまた演劇、音楽の世界にいざなわれました。語学を学ぶということは、自分の世界を広げ、深めることだと思います。ロシア人の友達は本当にたくさんいます。その人たちが語ってくれた言葉が私の記憶のなかに宝として残っています。自分のロシア語の力にはいまだに不満ですが、ある意味では無意識のレベルでロシア語が理解できるようになりました。ひとりごとをよくロシア語で言いますし、夢もロシア語で見ます。ロシア語でしか表現できない感情も私の心に現われました。ロシア語を話す私と日本語を話す私は別人です。語学をマスターすると、自分のなかに別の人格が現われます。これはおもしろい現象です。ぜひ皆さんもこの感覚を味わってください。
 とにかく、人生は神秘だと思います。チェーホフは小説のなかで、ある主人公に「自分たちがいま生きていることそのものが奇跡だ」というようなことを言わせています。自分が世界のなかに生きているという神秘を感じさせてくれるのは主にロシア人です。人生には辛いこと、苦しいことがつきものです。でも、生きていること自体がとても不思議です。その不思議を解く鍵を握っているのが芸術だと私は思っています。ですから、就職をして身を立てることも大切だとは思いますが、若い皆さんには、豊かに生きるということ、自分に興味を持って、自分を磨く楽しみというものを知っていただきたいと思います。いろいろなことに興味をもって、世界を観察し、他の人々を観察し、自分を見つめて、自分と向き合ってほしいと思います。
 長くなりましたが、退屈しつつ読んでくださった方、退屈することなく読んでくださった方、どうもありがとうございます。
 ちなみに写真は2006年、マールイ劇場の150周年の祝典のときに撮ったものです。私の横にいるのは、マールイ劇場の女優で、たくさん主役を演じている人です。

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