椋木 保博 さん

略歴

1973年 島根県立益田高等学校卒業
1977年 外国語学部言語学科スペイン語専修卒業
(株)マエカワ スペイン現地法人
(2007年12月現在)


ローマ時代の水道橋−セゴビア

サグラダ・ファミリア−バルセロナ

 1977年に外国語学部言語学科スペイン語専修を卒業後、(株)前川製作所(現マエカワ)に入社しました。6年間の本社勤務を経て1983年に同社ベルギー現地法人に赴任。1991年にスペインへ異動、現在までスペインに駐在しています。

学生時代

 入学前に高校の教師より、本学のスペイン語専修に私の出身地において以前教会の牧師兼ボーイスカウト活動をしておられた教授がおられることをお聞きしていたので、何となく本学スペイン語専修との縁を感じておりました。

 

 入学後一学期間は全く勉強にも身が入らずぶらぶらしておりました。これではだめだと感じていた頃に一学年上の先輩に誘われスペイン語会話クラブに入部しスペイン語に身を入れようと覚悟を決めました。炬燵で一升瓶を片手にスペイン語の勉強をしていると、訪問して来た英会話教材のセールスウーマンに、勉強をしている学生を初めて見たとびっくりされた記憶があります。

 

 今となっては良い思い出ですが、貧乏学生でした。アルバイトは極力休み中に集中させ、その目的は生活費を稼ぐよりクラブの合宿費用をまかなうためでした。先生方、先輩方に時々食事をごちそうになり助かったものでした。

 

 クラブの活動には一回生の夏合宿より参加しました。月曜日から土曜日まで授業があり、昼休みと放課後にはスペイン語会話クラブの活動に参加していました。夏休みと春休みにはクラブの合宿に参加し、スペイン語漬けの毎日でした。

 

 スペイン語会話クラブの活動で一番の思い出は二回生の時に出演した語劇です。今井教授に毎晩遅くまで絞られ、不甲斐なさに涙しながら練習に参加しておりました。幸いにも関西学生イスパニア語連盟の語劇コンクールで優勝でき、今度はうれし涙を流したのも良い思い出です。

卒業後現在まで

 卒業後6年間の本社勤務中は主に海外業務部門にて中南米を担当し中南米への輸出業務を担当しておりました。当時はFAXやインターネットはほとんど普及しておらずTELEXの時代でした。入札前などには一日中TELEX室に閉じこもりTELEX用のテープを作成しておりました。辞令を受け取りベルギーに赴任し、スペインの顧客を担当することになりました。前任者は英語でやりとりしていましたから、スペイン語でやりとりするようになり相手から感謝された記憶があります。

 

 しばらくしてやっとFAXが普及し始めTELEXから解放されました。英語のキーボードしかないTELEXでスペイン語のテープを作成するのは一苦労でした。FAXの導入により日本やスペインとのやりとりが格段にやりやすくなったと感じたものです。

 

 8年間のベルギー勤務の後、スペイン支店の設立を命じられマドリッドに赴任いたしました。赴任した1991年当時は次年度に控えたバルセロナオリンピック、セビリア万博、新大陸発見500年の記念事業などで浮かれた雰囲気でしたが、仕事の面では最悪の状況で、年3回も通貨の切り下げがあったりと最悪の状況が数年間続きました。その後、環境も好転し業績も順調に伸び現在に至っております。来年度からは従来の事業は後輩に譲り、新事業を立ち上げるべく再スタートを切ったところです。

 

 幸いにも18歳の時から現在に至るまでスペイン語と関係を保つことが出来、大学で学んだスペイン語を活かして仕事をすることが出来て幸運であったと思っています。

後悔と学生の皆さんへの言葉

 今でも時々学生時代の夢を見ます。語劇の本番になっても台詞を覚えておらずどうしようかとおろおろしたり、単位が足りなくて卒業できないといった夢です。

 

 もし可能なら、現在持っているスペイン語の知識のまま、もう一度学生生活をやり直したいという希望を持っています。もっと真剣にスペイン語の勉強をしていたらという後悔の念があります。

 

 後輩の皆さんに言いたいことはのんべんだらりと学生生活を送るのではなく、何かに集中して日々を送って欲しいということです。年ととるにつれ1年が過ぎるのを早く感じるようになります。今から思うと学生時代に感じていた1年は無限のようでした。しかし1日24時間、1年365日という時間は変わりません。いくら集中しても集中しすぎることはありません。それが学問であれば何よりですが、学問やクラブ活動に集中すること、これらは学生時代の特権です。遊ぶことは卒業してからも出来るのですから。

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