吉井 さやか さん

略歴

1994年 京都府立鳥羽高等学校卒業
1999年 外国語学部言語学科スペイン語専修卒業 大阪電子計算株式会社に勤務
退職後、2003年から2005年アフリカのモザンビークにてJICAの青年海外協力隊として活動
2006年 派遣添乗員として勤務
2007年 青年海外協力協会近畿支部にて開発教育業務に従事
(2009年12月現在)

学生時代、スペインへの留学をきっかけに

 授業、テニスサークル、アルバイトに忙しい日々を過ごしていた。どちらかといえば、スペイン語よりもテニスにとことん力を入れていたように思う。3回生も終わり、テニスに一区切りがついたため、入学当初から考えていたスペイン・サラマンカへの留学を決意。クラスメイトにとっては突然のことだったようだが、自分の中ではごく自然の流れであった。

 まだ交換留学という制度もなかったため、自分で留学先を選び、住む場所も決め、何もかもが挑戦・新しい毎日だった。それまで3年間スペイン語を勉強してきたはずなのに、あまりの通じなさに当初情けない気持ちでいっぱいだった。また、授業中のディスカッションでは、話したい気持ちや考えがないと会話は上達しないことに気づく。「留学中にDELE(中級)取得」という目標を設定し、スペインをめいいっぱい満喫しつつも、何の為に自分はここへ来ているのか、常に考えながら過ごすようにした。

 この留学を通して、出会った人々から学んだこと、家族と離れて改めて気づく感謝への気持ちや、日本・京都のことを見直したり、今ある私の原点はこのスペインでの様々な気づきにて培われてきたように思う。

卒業後、アフリカへの道のり



 スペインへの留学をきっかけに、就職活動をすすめる中でいつか海外で働きたい思いが生まれていた。商社や旅行会社、メーカーなど直接すぐに海外に関わるような業種を主に受けていたが、縁あってコンピュータ技術関係の仕事に就くことになった。コンピュータは世界共通。まずは自分を、自分の技術を磨いてから、と。

 会社に入ってもプログラミングにネットワークやデータベースの構築など、初めての連続。資格試験も自分の為と独学で勉強し続けた。既に心は3年後(結果的には4年後になったが、、)の海外(青年海外協力隊)に向かっていたため、吸収できることなら何でも挑戦した。またそれができる環境だったことが私にとって大きかった。そして、合格。国はアフリカのモザンビーク(コンピュータ技術隊員)。もちろん希望は中南米のスペイン語圏だったのだが、これも何かの縁、今しかできないことを!と、腹をくくって出発。

 モザンビークでの2年間。アフリカの大地の中にどっぷり浸かり、2度と経験できないであろう、貴重な、そして、とてもゆっくりした時間の流れの中を、毎日を大切に、全力で生きていた。自分にできることを、欲張りすぎずできるだけ欲張って。

モザンビークとの出会い



 アフリカ大陸の南東沿岸部、マダガスカルのちょうど向かいに位置し、公用語はポルトガル語。スペイン語の基礎があるおかげですっと入っていくことができた。首都マプトは高層ビルも立ち並ぶ都会(私が想像していたよりもはるかに!!)で、ポルトガル植民地時代の影響もあり町並みはきれい。ただ、ゴミが町中に散乱し、家々には鉄格子が各家庭に必ずあったり、ガードマンがいたりとかなり物騒な面もある。

 私の活動地は、首都から200kmほど北に位置する海沿いのXai-Xai(シャイシャイ)という町。求められていた仕事内容は、州内すべての井戸のデータを管理するデータベースの作成だった。出発前はなぜ井戸なのか、データベースを作るよりも水道を作ればいいのにと漠然と考えていたけれど、井戸が近くにできるだけで2時間かけて行っていた水汲みの手間が軽減されるのだ。町を一歩でると、わらと土壁の家に住み、薪で水浴び用の湯を沸かし、炭で料理をしている家庭がほとんどである。電気のないところもたくさんある。ただ、電気はなくても生活できるが、水は人間が生きるために「なくてはならない大切なもの」だということを身にしみて感じた。

現地に到着すると、援助で寄付されたパソコンはあるが使える職員はほとんどおらず、肝心のデータも10年、20年前のもので、紙で残ってるのみ。相手にとって何が必要なのか、私ができることは何かを常に考え、同僚達へのパソコン指導と同時に井戸の調査を開始した。半年にわたる、井戸1件ずつ村ごとをまわってのデータ集め。時には3週間のテント生活、彼らとともに食事をし、考え、過ごす中で、価値観の違い(特に時間の概念)に気づいたり、生きる知恵を学んだり、ぶつかりあいながら本音で接することができた。私は何の為にここにいるのだろう、援助って何だとうと悩むことも多かったが、結局は自分と相手。ここで出会った様々な人達、一緒に過ごしてきた人達に少しでもプラスになればと考えながら過ごした2年間だった。

そして、現在

 帰国後、モザンビークで経験したことを学校などで話す機会がある。日本にいて私ができることのひとつとして「伝えること」があり、また、「たくさんの人との出会い」が私にとって大切だと考え、旅行添乗員(国内)として1年間勤務した後、現在の青年海外協力協会での開発教育業務に辿り着いた。海外(途上国)と日本(学校)をつなぐ今の仕事を通して、少しでも多くの人にとって、世界の現状に目を向けたり、そこから自分たちの生活を振り返るきっかけになれば嬉しく思う。

みなさんへ

 スペイン語学科の魅力として、1クラス20人強の少人数制ということ。授業に行けば毎日仲間や先生に出会え、ゼミでは横だけでなく縦のつながりも強く、アットホームな溶け込みやすい雰囲気があった。どの先生の授業も個性的で楽しかったことしか今は覚えていない。一番大切なことは、授業(その時間)を積極的に楽しむことだとみなさんに伝えたい。

 アフリカでの2年間が貴重だったように、学生時代もまた貴重であると思う。たくさんの情報を得ることはもちろん大切だが、その情報に惑わされず、流されず、自分に大切なものは何かまず考え、これと決めたらどんなことでも実際に行動してみること。どんな経験も後々の自分の人生にいつか必ずつながると信じて。

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