川島 ありす さん

略歴

1992年3月 鹿児島県立松陽高等学校卒業
同年4月京都産業大学外国語学部フランス語学科入学
1995年1月~1996年2月 フランスへ語学留学
1997年3月 京都産業大学外国語学部フランス語学科卒業、卒業後、フリーで翻訳・通訳を務める。
1998年12月~2004年5月 株式会社京阪ホテルシステムズ「ロテル・ド・比叡」に勤務
2004年5月~2007年9月 大阪ヒルトン株式会社入社 営業部に所属
2007年10月~ 株式会社シャレに入社 海外サプライヤー担当
(2007年10月現在)

紆余曲折の私のこれまでの人生

1992年春、鹿児島県立松陽高等学校を卒業し、晴れて京都産業大学フランス語学科に入学しました。なぜフランス語を選んだのか?それは競争率が一番低くて合格しやすいと思ったからです。フランスに対するイメージは「フランス革命」「エッフェル塔」ぐらいで、でもフランス語を使えたらちょっとカッコイイなあと夢見ていました。ところがいざ勉強となると大変でした。

特に1年生の教室での毎日の文法テストが苦痛で、高校時代の受験勉強地獄生活がフラッシュバックする思いで、毎日辞書やノートを投げる日々が続きました。
「大学ってもっとアカデミックなことをやるところやろ!」と悶々としていましたが、やがてあきらめてフランス語を勉強することにしました。そしてフランスを「もっと知ってやろう、フランスという国を文化をもっと追究してやろう」という気持ちになり、1年間のフランス留学することを決意。3年生修了と同時に阪神大震災の爪痕がリアルに残るニッポンをあとにフランスへ旅立ったのです。

最初はスイスに程近いシャンベリーという町で大学の外国人向け講座を受講していました。ここでの半年間のフランス語の上達は目覚ましく、自分自身の気持ちが成長についていけないほどでした。学校では大量の宿題、熱く繰り広げられるディスカッション。学校が終わると同じ教室のスウェーデン人や町で知り合ったフランス人の学生たちと朝までバーでビールを(ワインよりたまたま安かったので)片手にしゃべり明かし、早朝また別のカフェでエスプレッソをひっかけて学校の講義に出る、という生活でした。

夏休みはリヨンで過ごし、秋から南へ南下、トゥールーズ、ボルドー、ペリグーなどを転々としました。またボルドー周辺の田舎では人種差別も経験し、決して楽しいばかりの毎日ではありませんでした。しかし、1年の滞在で「フランス人とほぼ対等に会話ができるよう言葉を習得する」という目標を達成しなくてはなりませんでしたから、できるだけ新聞や本を読み、レベルアップに努めました。そのころになると学校の授業はあまり役に立ちませんでしたから、あとは自分でどこまで努力するか?だったのです。その成果もあり、滞在の最後の頃には自分の存在価値を認めてくれる人も少しずつ増え、ご近所のお年寄ともうまく付き合いができるようになり「うちの畑でとれたレタスをあげるから代わりに新聞を読んでくれないか?私は文字が読めないんだよ」と頼まれたりすることもありました。帰国後、4年生の課程を終了し、無事卒業。仕事はどうしてもフランス語を使いたいという思いからアルバイトをしながら通訳や翻訳の仕事を受けてこなしていました。

当時若さと勢いで「メンフィス (光琳社出版:絶版)」を翻訳しましたが、今でもいい思い出になっています。ジュンク堂に自分の翻訳本が何冊も積み上げられているのを目の当たりにした時は本当に嬉しかったものです。

しかし、フリーランスでの仕事は金銭的に大変でした。まだまだ精神的に未熟であることに気づき、一度はサラリーマン生活を経験しよう、とその後8年間のホテルマン生活に入ります。

最初に入社したホテルは比叡山のロテル・ド・比叡。フランスをイメージしたプチホテル型のホテルでした。 規模が小さいこともあり、宴会サービスのキャプテン、フロントマン、営業、レストランでのフードコーディネーターという仕事を5年間経験。毎日お客様に喜んでもらえることばかりを考えて仕事をしていました。おかげさまでホスピタリティー精神を身につけることができました。その時点では語学のスペシャリストとして働くという気持ちはかなり薄れていて、一生ホテルマンとして生きていこうと思っていました。そういうこともあり名前のよく知られた大手ホテルへの転職を夢見て、ヒルトン大阪へ入社。今度は比叡の山を下りて梅田の都会のジャングルへ飛び込むことになります。

面接の際には「私は英語ができます」と半分嘘をついて入社。営業部に所属し、さまざまな企業や公的機関などがホテルで主催する宴会・セミナーのコーディネーターとして働きました。担当は海外の企業、各国政府観光局、大使館・総領事館関係。
もちろん英語を使う機会は非常に多く、英語はあまり得意でなかった私ですが、どさくさにまぎれてなんとかメールや電話でお客様とやりとりをし、そのうちに英語が少しずつ上達してきました。

しかし、英語が得意でなかった私がなぜ仕事で英語を使えるようになったのでしょうか?そのベースにはフランス語があったのです。
英語はフランス語やドイツ語などよりも新しい言語。言語文化が遠い日本人にとっては英語ってとっても難しいんです。しかし、英語のベースになっているフランス語やドイツ語をちゃんと勉強していれば、いざ英語を使う際にも応用がききます。
その経験を経てしみじみとフランス語を勉強していてよかった!と思いました。
言語習得のおもしろさに再度目覚めた私はもう一度自分の人生を見直します。

本当にやりたいことは何なのか?年齢やお金などのしがらみを一切捨てて毎日一日15分間一生懸命「自分の夢って何かな、本当にやりたいことは何かな?」と瞑想そして妄想する日が続きました。その頃の私は残業続きで業務に追われる日が続き、いつのまに人生に「ロマン」を見出せなくなっていたのです。
毎日15分の妄想を続けているうちに再度本当にやりたいこと、夢が掘り起こされて毎日が楽しくなりました。
そう、私は「言葉」に一生こだわり続けていく「言葉屋」になろうと思ったのです。
あえて翻訳・通訳という枠をはずして考えてみたので「言葉屋」と私は言っています。
というわけで遠い将来にはフランス語で本を書きたいというロマンチックな夢がありますがもうひとつのより現実に近い目標として「医薬翻訳者になる」ことを設定しました。
技術系や医薬系の翻訳は需要もあり、お金にもなります。
まずは翻訳英語の習得と医薬知識が必要。しかし、日々の生活は忙しく、勉強の時間と精神的余裕もありません。仕事で医薬知識を身につけることが早道だ!と考え、33歳にしてもう一度転職を決意します。

親しい知人に自分の夢をたくさん語り「私のような人材を必要とする会社があったら教えてくれ」と言っておきました。
しばらくたって知人より「ジェネリック医薬品に関する仕事がある、英語が必須条件だ」という連絡を受け、さっそく履歴書を手に会社訪問。
面接では「いずれは独立して言葉屋になりたい、しかも翻訳という分野では医薬翻訳を専門としたい」という意志を伝えました。
ご対応いただいた社長は「社員の夢を叶えることが私の役目でもあります。ぜひ一緒に働きましょう」と言っていただき、すぐに内定いたしました。
この会社は大阪の難波にある株式会社シャレという従業員3人の零細企業です。
業務としてはジェネリック医薬品の輸入代行サービスを行っております。
みんなそれぞれに明るい未来と夢を掲げて頑張っています。
私も毎日医薬品の知識と英語のレベルアップそして自分の夢である「言葉屋」を目指して楽しく仕事をしています。

フランス語の仕事travailという言葉の語源には「苦痛・苦悩」という意味が含まれているそうです。なぜ、彼らの国がバカンス国なのかよく分かりますね。
本来働き者が多い日本では「働く」ことは美しいこととされています。ならば「仕事はつらい、おもしろくない」と思うよりもたとえ多少つらくても「そのつらさを楽しむ」心がけが必要だと思います。
つらくて大変なことは長くは続きませんから、明るい未来を自分でVisualisation(可視化)して楽しく毎日を過ごすこと、そして他人が言おうと「ブレないしなやかな自分」という軸を持つことが大切です。
私はこれまでいろんなところで小さな壁にぶつかりながらやっと33歳になって本当にやりたい一生の仕事を見つけました。
20代前半で夢を見つけられる人はあまりいないと思います。
学生時代、将来を見据えて資格試験取得に挑むことも大切ですが、人生は資格だけではない!一流企業に入ったり官僚を目指すことも否定はしませんが、肩書きや資格にとらわれない「ちゃんとした自分」を確立することがもっともっと大切だと私は思います。
殺伐とした今の社会を生き抜くために「ブレない自分」をもちましょう。
学生生活ではそれをいつも心にとめて学んで遊んでいただきたいと思います。
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