仲道 愛子(旧姓 井上)さん

略歴

1992年 京都産業大学 外国語学部 中国語学科(現:アジア言語学科 中国語専攻)卒業

メッセージ

仲道さん(右)
職場の依頼で、島の伝統舞踊の衣装を着てのもの

この大変な世の中、少しでも激励のメッセージが皆さんの心に届けばと気負っています。
思えば、35年前、京都産業大学へ入学が決まった時は正直挫折感一杯でした。実は京都産業大学は滑り止めで受験して、結果「致し方なく」入学を決めました。ですが、中学・高校と女子校生活にうんざりしていた私は、切り替えよろしく久々の「男女共学」に胸躍らせながら京都産業大学の坂を登っていました。やりたかった「アルバイト」「一人暮らし」、体育会系の部活に勤しみ、青春とはこうでなくちゃ。毎日が「晴れの日」だったような気がします。志望の中国語学科なので、勉強もそれ相応にしていたら、恩師より中国国費留学生に応募してみないかと声をかけてもらいました。志望レポートを提出して、3年生の夏から約1年間南京大学へ留学しました。

大学卒業後は中国語を活かしたいと京都の島津製作所へ総合職として入社。総合職とはいえ、当時はまだ女性は事務方という括りで、中国からの来客対応が主な仕事でした。大組織の歯車で一生をこのまま終えてしまうのか?今から思えば若気の至りですが、2年半で退職を決意。その頃3歳下の知的障害である妹が成人のアトピー性皮膚炎に苦しんでいました。家族で様々な治療法を試みる中で食生活の大切さに気付かされました。また彼女が通う福祉作業所の中で働く栄養士という資格に魅了され、再度勉学の道に身を置くことに。ですが、その最中の1月17日に阪神淡路大震災に遭いました。全壊した芦屋市の我が家に京都産業大学の専科の先生が京都から鉄道がまだ復旧していない中、飲料水を担いで陣中見舞いに来て下さったことは感激で忘れもしません。

その後2年間栄養士の専門学校に進学、卒業後は念願の知的障がい者授産施設の栄養士として就労。更に実務経験2年後には国家資格の管理栄養士試験に合格。私は今以上に栄養士としてだけでなく、送迎や施設法人での様々な事業への参画と自己を顧みず、仕事にのめりこみ、気が付くと摂食障害一歩手前の心身状態に陥っていました。退職した私に、ある日、大学時代のアルバイト先の大将から電話があり、「骨休みに石垣島に行ってみないか?」と。これは天の声?と私の心に染み入り、その三日後には最南端の地に降り立っていました。

それから石垣島の豊かな自然に囲まれて20年の月日が経ちました。地元の方と結婚して家庭を築き、伝統行事の色濃く残る地域の嫁として、また母として様々な人間関係を通して成長させてもらいました。また管理栄養士としては老人保健施設に在職して10年、その経験からこの4月より同法人の新プロジェクトの現場責任者の任を賜ることに。沖縄県下の福祉施設としては初めてのHACCP対応のセントラルキッチン。6事業所の給食1日最大800食を提供していきます。

ここまでの道は栄養士としてだけでなく人間としても全て無駄な経験は一つとしてなかったです。
京都産業大学で培われたバイタリティーも手伝ってまだまだ成長していきたいと願っています。人生100年と言われる時代なのですから。

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