中井 礼子 さん

略歴

1985年 外国語学部言語学科イタリア語専修卒業
    京都ハンディクラフトセンター内のアミタに就職
1987年 チリ人と結婚、チリに渡る
2007年 日本総合文化センター、セイハの創始者の一人となる
                          (2017年12月現在)
家族旅行:チリ北部アタカマの砂漠の花を見に散策へ(2017年9月)
家族旅行:チリ北部アタカマの砂漠の花を見に散策へ(2017年9月)

大学

大学では、英語またはそれ以外の外国語を勉強したいと思いました。当時、私学でオプションの多い京都産業大学外国語学部を勧められるままに受験し、イタリア語を勉強する大学生活となりました。両親が描いていた進路ではなかったにもかかわらず、また、将来のことをあまり考えていなかったにもかかわらず、私に大学と言う場で勉強させてくれた両親に感謝しています。とにかく、大学というところで4年間を過ごしてから、何かしらの仕事に就こうと思っていましたので、イタリア語だけに固執はしていませんでした。大学では、積極的に多様な科目に挑戦しました。例えば、第2外国語としてのスペイン語や国際関係論演習等を履修し、学外の英語講座にも通ったりしました。それでも、後にスペイン語の修得が必要になったときに気づくことになるのですが、イタリア語を一から勉強させてもらい、基礎文法が身についていたことをありがたく思いました。

卒業後

京都ハンディクラフトセンター内のアミタという会社に就職が決まり、いろいろな外国語を勉強した同僚達と働き、とても楽しかったです。仕事でスペイン語が必要になり、会社にほど近い「日本イタリア京都会館」のスペイン語講座に通いました。その講座で、チリ人の先生の知人と出会い、その人と人生を共にする決心をしました。結婚後、南米のチリに渡り、現在に至ります。

チリでの生活

私の人生、今ではチリの方が日本より長くなってしまいました。世代もすっかり違うみなさんに何かお役に立つメッセージが送れるかはギモンなのですが、3人いる私の娘や息子には「何でもやっておく、すべてやったことに無駄はない、失敗してもうまくいっても何かが残る」と言っています。チリに来てすぐに日本語を教えてみないかと誘われました。もともと興味があったので、研修を受け、日本語を外国語としてとらえ、教えることがとても面白くなりました。これは、学生時代に外国語を学んだおかげで、あまり苦労せずに取組めたからだと思っています。そして10年前に、現在従事しています日本総合文化センター、セイハ(http://www.ceija.cl)の創始者の一人となり、チリの首都サンチアゴで日本語と日本文化の普及に努めています。チリにはなぜか親日家が多く、「どうしてかわからないが、とにかく日本が好き!」とセンターに来てくれる人たちが年々増え続け、活動も広まり、立ち止まってはいられない状況になりました。
セイハ10周年記念式典:創始者3人へ日本語の先生から花束贈呈の際(2016年10月)
すみ絵展覧会オープニングパーティー:セイハ主催の文化展覧会にて(2017年10月)
大学での講座修了証書:サンチアゴ内の大学で実施された講座終了時(2017年11月)

メッセージ

ということで、私の人生、おそらく自分の意思で決めたことは「チリに来ること」と「センターを設立する」ということくらいです。優柔不断な私は、流れのまま、その時いる場所でできることを精一杯やってきました。その結果が今のチリでの生活です。よって、私がみなさんに申しあげられるのは、時には無理をせず、流れにまかせてもいいのではないかということです。好きな事ができるのが一番ですが、そうでない時には、ひとつずつ自分で考えたことをやってみると、案外流れが良くなるのではないでしょうか。もちろん、目標に向かって、強い意志を持って、将来に進むのもいいでしょう。でも、おそらく私達の多くは、流れの中で身をまかせて生きて行くのだと思います。その流れの中で、いい人生になるかならないかは、自分自身が向き合う姿勢なのだと思います。みなさんの人生、力を入れたり、抜いたりしながら、大切に、そして、より多くのことを経験してください。それからもうひとつ、日本人であることに自信を持ってください。こちらに来て、外国人の中で生活して、「日本人ってすごい!」ってことに気がつきました。おそらく、みなさんが想像している以上です。チリ人、そして、日本人以外の世界の人々が、理解できない、なんだかわからないけど憧れる、すごいものを持っているのです。グローバルな時代にこそ日本人であることを大事にするのが魅力かもしれませんね。
みなさんのご成功をお祈りします。
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