野々口 敦子 さん
略歴
1992年3月 卒業
新入生の皆さんへのメッセージ
私が京都産業大学外国語学部英米語学科に入学したのは今から30年近く前のことです。当時、不安と緊張感はあったものの、それ以上に夢と希望に満ち溢れていたように記憶しています。その頃はまだ日本の製造業が世界をリードし、日本経済が頂点を極めていた頃だったからかも知れません。卒業時にはバブル経済の崩壊でそれ迄ほどの売り手市場ではなかったものの、希望していた一部上場企業(メーカー)にも就職できたのです。ただ、就職する企業のネームバリューやイメージに拘り、本質を見て企業を選ばなかったので、私は就職後大きな挫折を味わいました。その意味では、厳しい就職戦線を闘わなければいけない皆さんは、大学4年間に自分自身、自分のやりたいこと、自分の将来と企業について深く考える機会を望むと望まざるとに関わらず与えられているのではないでしょうか。
私は、現在、民間企業に属し、日本政府の政府開発援(ODA)にかかる技術協力事業のコンサルティング業務に従事しています。具体的には、開発途上国で社会文化的な規範やイデオロギーを理由に、あらゆる面で差別を受け、資源やサービスへのアクセスや意思決定権が限られている女性のエンパワメントを促す政策提言等の業務を中心に行っています。大学卒業後入社した企業で自分の思い描いていた仕事をすることができず、悶々とする日々の中で、自分の語学力を活かしつつ社会に貢献でき、一生続けていける仕事は何だろうかと考え続けました。2年余の年月をかけて私が見つけた新しい道は、国際協力という世界でした。大学時代には考えたこともなかった未知の世界でした。
開発途上国でJICA専門家・コンサルタントとして携わった仕事を通して撮影した写真






私が、大学4年間、その後の紆余曲折を経て現在のキャリアを積むまでの過程を振り返って、重要だったと思うことが2点あります。それは「目標を決めて、その達成のために戦略と計画を立てること」、そして「強く願うこと」です。この2点については、後ほど詳しく説明しますが、私はこの2点を大学時代にやらなかった、やれなかったので、そのツケを就職後に払うことになりました。私が今のキャリアを始めたのは25才の時だったので出遅れは否めません。それでも、あの時自分と向き合って自分の将来を真剣に考えたからこそ、今の自分があるのだとも思っています。その意味ではやり直しは効きます。
私は、大学時代、将来の夢を明確に持っていませんでした。ただ、中学、高校と英語が好きだったので、将来は英語を使う職業に就きたいと漠然と考えていました。そのためには英語が話せるようになりたい、留学したいと思っていました。留学費用を捻出するためアルバイトに明け暮れ、念願かなって3回生が終わった後、私は大学を休学してアメリカに留学をしました。1年間の留学を経て、自分ではそれなりに頑張って語学力を習得したという自負があったので、就職活動の中で面接を受けた企業の面接官の殆どからあまり評価されなかったのは結構な衝撃でした。
就職活動中、また就職後に受けたそれ以上の衝撃は、企業や社会による女性差別でした。私が就職活動を行ったのは1991年、男女機会均等法が施行されて6年の時期でしたが、企業や人々の考えはまだまだその法律に追いつけていなかったのだと思います。その頃は、女性社員に限って「総合職」と「一般職」の区別があり、私は「総合職」というカテゴリーで就職し、給与面等では男女平等の待遇を受けたのですが、仕事の内容面ではそうとは言えませんでした。能力ではなく、性別で仕事内容を決められていることに納得できなかったのです。この企業で仕事を続けても自分には一生チャンスは来ない、働き続けるに値する仕事ではないとすぐに気づきました。
それから2年余の年月をかけて、私が目標に掲げたのは「青年海外協力隊」でした。その頃、国連機関に勤める日本人の経験談をまとめた本を本屋で見つけ、夢中で読みました。その本には、その人たちがどのように国際公務員のキャリアを掴んだかが詳細に書いてありました。多くは青年海外協力隊の経験者で、その後欧米の大学院で専門分野の修士号を取得して、国際公務員になったという経歴でした。これだ!と思い、その日から、どうしたら協力隊員になれるか、過去の試験問題を徹底研究し、元協力隊員の人からも適性検査や面接のコツを聞き、合格するための戦略と対策を練る日々でした。そうした努力に加えて、私がやったことがあります。それは、寝ても覚めても、そして仕事中もとにかく強く願ったということです。協力隊に行きたい、絶対行く、と。その当時競争率40倍の難関を破って合格できたのは未だに奇跡としか思えませんが、最後は私の強い願いが面接官に通じだのだと思います。
私が青年海外協力隊員として赴任したのはネパールです。1995年4月から1997年7月までの2年3ヶ月の任期中、私は、ポカラ近くの中間山地の農村で、JICA(国際協力機構)が実施する住民参加型のコミュニティ開発事業のファシリテーターとして活動しました。電気も水道もない農村での生活は、2年間という期限が決まっていたから出来たことではありましたが、あの村での経験が私の原点であり、一生の宝物です。ネパールの農村に深く根付く伝統文化、社会、宗教に基づく規範や慣習によって、女性や低位カーストの人たちが虐げられ、不当な扱いを受けているのを目の当たりにして、自分の体験も重なって、私は「開発とジェンダー」という分野に強い関心を持ち、帰国後アメリカの大学院で理論を学び、仕事にし、今の私に繋がっています。
1995年4月から1997年3月まで青年海外協力隊員として駐在したネパール・カスキ郡デウラリ村にて

(1995年4月〜1997年7月)


(1996年頃撮影)


(1997年頃撮影)

JICA専門家、ネパール人スタッフ(1997年頃撮影)
米国ペンシルバニア州立大学に留学中(2006年5月)に調査を実施したスリランカ南西部の津波被災漁村にて



(2006年5月撮影)



(2006年5月撮影)
2004年12月から2005年3月まで、女子教育の現況を調査した中東イエメンにて











(2005年1月)

(2005年1月)
2015年8月と11月に復興・防災状況を調査したフィリピン・レイテ島台風ハイヤン被災地にて


(2015年7月)


(2015年7月)

(2015年7月)

2015年8月と10月に、復興・防災状況を調査したスリランカ津波被災地&土砂災害頻発地域、及び洪水頻発地域にて




(2015年8月)



(2015年10月)
2016年2月に畜産・農業の現況調査を実施したパキスタン・KP州にて

(2016年2月)



(2016年2月)

(2016年2月)

(2016年2月)