渡邊 光 さん

略歴

ドイツで開催されたMICE商談会で、神戸の素晴らしさをプレゼンしました
1980年 京都産業大学外国語学部英米語学科卒業
1980年 近畿日本ツーリスト株式会社入社
2011年 大阪観光コンベンション協会(大阪観光局)に出向
2014年 神戸国際観光コンベンション協会に出向
(2015年10月現在)
今年の夏、大学時代に所属していたクラブ活動ESS(英語研究会)の同期と先輩、後輩で集まって同窓会をしました。いつも思いますが、大学時代の仲間はいいですね。すぐにあの時代にタイムトリップでき、まるで昨日のことのように当時に戻って話がはずみます。

学生時代の思い出

大学では、外国語学部英米語学科国際関係コース専攻でした。忘れられない素晴らしい先生に出会えました。梅田先生です。英語を話す時のリズム・イントネーションの重要性をメトロノームを使いながら教えてくださいました。卒業後、ずっと英語を使う仕事についておりますが、英語圏の人達にYou speak very good English.と言っていただけます。英語を英語らしく話すのに重要なのは、リズム、イントネーション、破裂音をきちんと発声できるかどうかではないでしょうか。先生は一番大切な基本を徹底的に教えてくださいました。

次にESSです。私の大学時代は、ESS無しには語れません。当時は、5つのセクションがありました。私は、その中のディベートセクションに入りました。日本の大学の授業などで取り入れられ始めているようですが、2つのチームが賛成・反対のどちらに立っても理由を整然と説明して何故賛成・反対なのかを議論します。それを、複数のジャッジ(審判)が聞いて勝者を決めます。京都大会、西日本大会、全日本大会と進み、日本一を決めます。私の3回生の時の戦いの議題は「原子力発電所は、廃止すべきである」”Atomic power plant should be abolished.”約35年前にこんなホットな話題で議論しました。結果は、京都地区優勝、西日本大会二回戦で南山大学に敗れました。嬉しかったのは、次の年、私達の後輩が、全日本大会で3位をとってくれたことです。試合で勝ちたい一心で、皆真面目に取り組みました。このディベートセクションでの経験とESSの部長として同期の仲間と目指すべきESSの将来像を議論しながら過ごした3回生の時の経験が今も自分をささえてくれているように思います。

もう一つ忘れられない思い出は、下宿生活。上賀茂の農家の離れに住ませていただきました。5色の花が咲く大きな椿の木があり、「椿荘」と呼ばれていました。私もそうでしたが、地方から出てきた学生は、お金の余裕が無くいつもピーピー言っていました。私の実家は農家でしたので、米だけはいつもふんだんに田舎の両親が送ってくれてました。それを知っている同期、後輩が下宿に転がりこんできました。当時コカ・コーラ、ファンタ等のから瓶をお店に持っていくと1本10円で買ってくれました。後輩たちに近所の下宿、アパートに放り出してある瓶を集めたお金でレトルトの親子丼と生卵を買ってきてもらい、水と醤油を加えて人数分に量を増やし皆で宴会しました。貧しかったけど、楽しい思い出です。あ、そうそう、同じ下宿が、「雀荘椿」と呼ばれ、皆で卓を囲んだのもいい思い出です。今の学生さんには、下宿がどんなものかわからないかも知れませんね。

社会人になって

大学を卒業して、近畿日本ツーリスト(KNT)という旅行会社に就職しました。何故この会社を選んだのか、それは大学四回生の夏休みにアメリカホームステイツアーに参加したことがキッカケでした。そのツアーの添乗員がKNTの社員さんでした。その仕事する姿を見て、「英語が使えて、外国に行けて給料がもらえる」、「これだ」と思い帰国後、10月就活活動解禁に合わせて、旅行会社の面接を受けました。そして何故かキッカケになったKNTに受かりました。人生とは、本当に不思議です。入社後は海外旅行の担当ではなく、外人旅行部京都外人旅行センターの所属になり、日本に来る外国人用の観光バス「グレイライン」の英語ガイドさんのアサインに始まり、企業の招待旅行、海外から文化体験をしに来られる人達のツアー作りなどをしました。東京オリンピックを控え、政府は訪日客2千万人を目標に掲げていますが、当時は3百万人でした。若い職場で、事務所の平均年齢20代後半でした。新しい分野の仕事だったので先例に縛られること無く自分達が今後の展開を考えながら仕事を進めることができました。そのお陰で「仕事は与えられるものではなく、自分で作るもの」という考え方を先輩に叩き込まれ、それがその後の自分の生き方の柱になりました。

その後、一度は東京で自分を試してみたいと思い、転勤希望を上げ、6年後東京外人旅行支店に転勤、更に2年後ロサンゼルスの駐在員が長期勤務になるので交代要員が必要ということで、私に白羽の矢が立ち、いっきに海外まで出ることとなりました。もともと英語を学んで来ましたのでいつかは海外勤務を経験してみたいと思って、先の希望として上げておりましたので願いの通りの道を進むことが出来ました。

アメリカでは、現地企業の海外出張・招待旅行・企業ミーティングの営業に携わりました。当時、バブル期でメーカーが続々、海外生産にシフトした時代で、自動車・建機・電気製品等、様々なメーカーがアメリカに工場を作りました。英語が全く話せない工場長、生産ラインの管理者がたくさん日本からやってきました。その人たちの願いは、「ビール飲みながら日本語で案内してくれるツアーに参加したい」でした。そこで「びっくりバスツアー」という商品を作り販売しました。アメリカの温泉、ラスべガス・グランドキャニオンに格安で行けるツアーですが、着く時間・ホテルなどはお任せの商品なので「びっくり」としました。これが当たりました。アメリカの連休にツアーを設定し、ツアー代金を安くする為、日本語のガイド役・添乗員全て自分でしました。代わりに自分がゆっくりできる日が無くなりましたが、自分の父親の年代のおじさん達の嬉しそうな笑顔で報われました。

1992年に帰国し、大阪国際旅行支店働き始めました。先輩の一人が「これからはコンベンションの時代だ。きっと大きなマーケットになる。俺のチームに入れ」。ということで、今度は、国際・国内会議の運営・事務局代行業務にチャレンジしました。営業先も、大学、学会事務局などに変わりました。最初は派手さのない地味な業務に嫌気がさしたこともありました。大きな会議になると、準備期間含めると3年前から準備して本番を迎える。小規模な会議でも1年の準備、そして本番。常に10会議前後を同時進行で進めながらのプレッシャーのある生活ですが、先生や院生と会議の成功を目指し共に考え共に働く喜び、無事終わった後の達成感が励みになりました。毎回反省点が出ます。それをひとつずつクリアしていく。その時は進歩を実感しにくいですが、10年も経つと大きく進歩したことを実感できました。

50代半ば前、希望を上げていた大阪観光コンベンション協会(現在の大阪観光局)に出向させてもらいました。私のミッションは、MICE(Meeting、Incentive、Convention、Event)を大阪により多く誘致して、大阪・関西のMICE産業を支えてくださっているMICE施設、会議企画運営会社、ホテル、飲食施設、観光施設、旅行会社などに仕事が発注され、地元の産業活性化につなげることです。大阪府・大阪市・大阪商工会議所などとも協力して、大阪を様々な会議・イベントの開催地に選んでいただけるように提案する仕事です。今までライバルだったJTB、日本旅行からの出向者、近畿日本鉄道からの出向者、協会に最初から入社してきたプロパー社員と力を合わせて、主催者の下見受け入れ、海外のトレードショーへの大阪ブースの出展などを通じて誘致促進を目指して3年間頑張りました。その契約が満了し、現在は神戸国際観光コンベンション協会に出向して、同じくMICE誘致セクションで、国際会議の神戸市への誘致担当として日々を送っております。

後輩の皆さんへ

私が大学生の頃、小田実さんの書かれた「何でも見てやろう」という26歳のフルブライト留学生が、欧米・アジア22カ国を貧乏旅行した旅行記に出会いました。この本に影響を受けて、アメリカ旅行にも出かけました。それが縁で近畿日本ツーリストに入社し、現在に至っています。後輩の皆様にお伝えできることがあるとすれば、「好奇心を常に持つこと、そして行動すること」「夢を持つこと、必ずかなえられると信じること」でしょうか。学生時代はお金は無いけれど時間がありました。社会人になるとお金はあるけれど、時間がありませんでした。貴重な学生時代の時間、新しいことにチャレンジして自分の進むべき道を見つけてください。そこで出会った友が一生の友となるかもしれません。そこで出会った方が自分の進むべき道を示してくれるかもしれません。人との出会いを楽しみながら豊かな人生を築いていってください。
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