私の広州留学 (S.YONENAGA)
Y.S.
どんなに遠くへ旅行した時よりも、非常に印象深いことがあった。私の香港人の友達、陳さんという人に彼女の故郷に連れて行ってもらった時のことである。彼女は、キナン大学の日本語学科の生徒で、相互学習を通じて知り合った香港人だったのだが、彼女香港への移民者のため,生まれは広東省の新興というところらしく、肇慶という観光地に旅行に行くついでに新興に行かないかと誘われたのである。私たちは以前から肇慶に行きたいと思っていたので、結局彼女に連れて行ってもらうことにした。
広州駅のすぐ傍のバスターミナルから、バスが出ているというので、金曜日の授業が終わるとすぐ私たちは広州駅へ向かった。陳さんは日本語も殆ど出来ない上に、普通語も一般の中国人学生に比べると流暢なほうではないらしく、たまに何の説明もしてもらえないことがあるのだが、この時も、私たちは自分たちが何処で泊まるのか、新興という場所はどういった所なのか、全く分からないままにバスに乗った。バスは他の広州各地に行くバスに比べると幾らか小ぶりで、乗っている人の中には明らかに出稼ぎ労働者の姿もあった。
そのために予想はしていたものの、一時間半がたち、肇慶を過ぎたあたりから、急にバスは農村地域に入り、あたりに牛や鶏やアヒルといった動物達の姿が現れ始めた。普段広州という都市で過ごしているせいで、見慣れないアヒルの軍団に思わず奇声を発しながら、キョロキョロしていたら、バスが小さな町の中で停まった。
「ここです。」とアヒルが歩き回っている路地で、バスから降りた私たちの前を歩いていた陳さんは急に、コンクリート造りの家の前で立ち止まった。 言われるがまま家の中に入ると、おばあちゃんや子供が何人もいて、ものすごい騒々しさである。よく聞いてみると、この家は陳さんのお姉さんの嫁ぎ先らしく、そこにいた二人の幼い子供たちはお姉さんの子供ということだった。
陳さんが家の中を案内してくれると言うので、ついて行ってみた。一階は、厨房と入り口に面した居間、お姉さんと子供の部屋、二階は寝室が三つあり、私たちはその一つの四畳くらいの部屋で、一つのベッドに寝ることになった。屋上にあがってみると、新興の町の様子が良く見えたが、外は異臭が酷くてたまらなかった。陳さんによると、アヒルを焼いている匂いだと言う。
お姉さんが一緒に食事をと言うので、ご馳走になることにしたが、私は中国人の家庭で食事をご馳走になること自体初めてだったので、驚いたことがたくさんあった。
普通広州で中国人と一緒に食事をするときは、たくさんの料理が並ぶのだが、ここでは三種類ほどの料理を六人ほどで食べていた。一つの料理の量も非常に少なく、皆がそれをおかずに、まるで掻き込むように二杯から三杯のご飯を食べるのである。子供になると山盛りのご飯の上に料理の汁をかけて、二切れほどの肉と野菜を食べていた。 あとで先生に聞いてみると、これは田舎特有の食べ方らしいのだが、慣れない私たちはやはり一杯のご飯しか食べることができなかった。料理はとてもおいしかったのだが。
家族の人たちは非常に親切で、やたらと何か飲むか、食べるか、と気を使ってくれたのだが、そこのお宅にいる人たちの殆どが普通語を話すことが出来なく、また私たちの広東語もつたないので、結局詳しい話をすることが出来なかった。とてもそのことが残念に思えたが、広州を一歩出るとたちまち広東語だけの世界になるのは驚きだった。
陳さんが「ご飯を食べたら買い物に行きましょう。」というので、町の中に出てみたがそこは非常に鄙びた感じがした。町の中には殆ど車の姿はなく、皆歩きか自転車でレストランも殆ど見当たらないくらいの小さな町だった。ここについた時、なんとなく暗い町だな、と感じたのが、はっきりとまた感じられた。いつも中国で、比較的経済の悪いところに行くと、そう感じるのだが、ここもそんな町だった。
夜は、友達と二人で同じベッドで寝たのだが、部屋は裸電球が一つしかなく、布団と言っても薄い肌かけ程度のもので、天井が高く窓も天井付近にまるで牢屋のような小さな窓が一つあるだけで、非常に寒かったためか、またこんな部屋で寝るのは二人とも初めてだったためか、なかなか寝付けず、真っ暗な中でひそひそと話しつづけていた。
おそらく、これが地方での普通の家庭の姿なのだろう。私たちの暮らしている広州では、マンションの建設ラッシュで、私たちの知っている中国人は皆そうしたマンションに生活している。勿論私たちの知り合うような中国人は経済的に余裕のあるような人たちなのだが。実際広州には出稼ぎ労働者が多いので貧富の差は何処よりも酷いのではないかと思えてくる。
金銭的に余裕のない人はやはり目つきが悪い。中国に来てから、私にとって中国は非常に興味深い国であり、エキセントリックではあるのだが、手放しで好きになれる国ではないと感じた。やはり日に日に多くなってくる物乞いの姿、全身を火傷した子供を裸にして物乞いをさせる親の姿にはさすがに嫌悪感を覚えてしまう。どんなに広州の生活に慣れたと言っても、時々ほんの小さなことにまで違和感を覚えてしまうのは確かである。
広州に来て一年近くが経とうとしている今、ここへ来たことで知ったことや得たことは今ここで思い出せないくらい多くあったとは思う。広州で過ごすことに慣れ、そこで新しい自分の世界が出来たために離れがたく思う気持ちもある。しかし、留学したことが私を成長させたなどとは思わない。逆に日本と中国の時間の流れが違うために、この一年で失ってしまったものもある。
ただ留学という経験を経ることで、日本という国、そして日本人というものを知り、それまで自分がいかに恵まれた人間関係の中にいたのか、ということを知ることが出来たのは、私にとって今後利益となるのではないかと思う。
「刺激を求めて来ました。」よくどうして中国に来たのかという問いにそう答えてきたが、実際はただ一つの自信を得るために来ただけである。中国語学科を卒業しました、と言うためだけにである。学生と言う身分に甘んじるが為に、日本で勉強する機会を自ら放棄し、中国語は二の次のものとしてきた後悔が、私の心を捕らえて放さなかった。帰国を目の前にして、そういった自信というものがそう簡単に得られるものではないということを知ったことも、私にとって新たな発見であった。
今、この留学をどう表現していこうか、ということを考えている。とりあえず、今の生活を被写体にビデオを廻すことで、この留学の答えを見つけようとしているのだが、未だ何も考えが浮かばない。私は日本に帰って友達を相手に中国でのことを面白おかしく話すのだと思う。
しかし、そのあとで私は何を主題にビデオを組み立てるのだろう。帰国してはじめて知ることもあるだろう。ただ、私は今、人に話してしまうことで、あるいは記憶の上塗りで、本当の感情を失ってしまうだろうことがこの上なく残念である。だからこそ、今ここでビデオを廻しながら今の自分を残そうとしているのかもしれない。