私の体験記・マレー半島の華僑たち (K.T.)

K.T.


言うまでもなく、華僑とは、中国内外に居住する中国人のことである。華僑は今や、アメリカ、フランス、イタリア、日本など世界中至る所に居を構えている。身近なところでは、留学生友達のタイ人たちは皆、華僑の末代・華人たちである。


僕は、この夏休みに、その華僑の最も多い場所の一つであるマレー半島を旅行した。マレー半島の中国人は、僕の想像していた以上に当地に根ざしてせいかつしていて、その生活力はすごいものであった。そして、僕は一応、中国語を学んでいる身なので、彼ら華僑と中国語を用いて拙いながらも色々と話をすることができた。このレポートでは、この旅行中の体験、主に華僑との交流を中心に筆を進めていきます。

タイ・バンコクの老夫婦

8月3日、中国・広州白雲空港からバンコク行きの飛行機に乗った。乗ったのは、そのサービスのよさ・航路の多さで中国国内で人気のある中国南方航空の飛行機である。この日飛行機の中はほぼ満席。今、中国人の間では、タイ〜シンガポール旅行というのは、”新馬泰旅游”という単語があるほどで、今や海外旅行の定番である、と聞いていたので、夏休み真っ盛りのこの時期には、まあこれだけ席もうまるものなんだろう、と思った。


しかしすごいのは、中国人の飛行機の搭乗である。飛行機に乗る階段、飛行機までの送迎バス、目的地に到着した時など、もう我さきにと入口・出口になだれこむ。一番に席についたら何か賞でももらえるのか、といった勢いで、とりあえず列を作って並ぼう、などという殊勝な気持ちはさらさら無い。その、なにかの競技とも言える中国人の搭乗を遠巻きに身ながら、ああ、流石はほんの少し前までは、殴り合いで列車やバスの切符を買っていた人達なんだなあと、感心せざるを得なかった。


なんとか僕も座ることができ、飛行機は離陸。と、隣の座席の中国人の女の子2人に話しかけられた。僕が日本人だとも知らないので、ひたすら広東語で話しかけてくる。2年生の時に広東語の授業をとっておけば良かったなあと思っていると、2人は「仕方ないわね」とばかりに、普通話で話しかけてきた。


余談になるが、前にうちの宿舎の管理人・黄敏が「広東の住民はとりわけ、広東語を話せない人・外部の者に冷たい」と言っていた。香港人も使う広東語、つまり広東語は都会人の象徴なのだそうだ。実際、僕も広州で買い物をした時に、広東語は分からないんだ、と言うと、馬鹿にしたように普通話で話され、不快な思いをしたことがある。外部の者、よそ者に冷たいといえば中国ではまず鼻高々の上海人がすごく有名だが、広東もよほどのものである。


思いこみも多分にあったかも知れないが、この広東娘2人にも、語気の中にそういう感情が含まれているような気がした。が、いざ、話をして僕が日本人と知ると、様々な質問をしてきた。日本の若者はどういう生活をしているのかといった質問から、山口百恵は今でも人気があるのか、といったものまで、大概は、今まで中国人に何十回と聞かれたことのある質問ばかりである。



僕も負けじと色々聞いてみると、彼女らは小学校の先生だそうで、ツアーで5泊6日のタイ旅行をするという。彼女らの友達の間でも、比較的近くで、気軽に行けるタイ・マレーシアは人気があって、休みになるとちょくちょく行っているのだそうだ。流石は大都会の娘さんである。


機上の人となること2時間半、バンコク・ドンムアン空港に到着した。例にもれず我先に、と飛行機を降りようとする中国人の群に消えていった広東娘2人に別れを告げ、少し遅れて僕も機を降りる。


とりあえず、一緒に旅行する友達2人と待ち合わせのホテルに向かった。ホテルへ向かう途中、バンコクのチャイナ・タウンを通る。店の看板には、タイ語と中国語が並んでいて、中国語は繁体字で書いてある。対聯や”恭喜発財”の貼り紙など、中国でお馴染みのもので街にはあふれていた。


ホテルにて、無事に友人2人と合流でき、まず自転車探しを始めた。この旅行。「1ヶ月でタイ〜シンガポールを自転車で縦断する」という計画なので、とりあえず自転車が要る。が、バンコクには驚くほど自転車やがなかった。というより、自転車自体、街で見かけない。見かけるのは車、バス、バイク、トウクトウクばかり。流石は世界一の交通渋滞といわれるバンコク市だなと思った。


それでも市内をくまなく探し、なんとか自転車屋を見つけ1500バーツ(4500円)で自転車を手に入れることができた。そして、自転車の修理道具も欲しいと思い、道を訊くために入った店が、旅で一番目に出会った華僑の店だった。


店の奥に座っている初老の男性に話しかけようとして、何語で話しかけようか迷った。が、ふと見ると、彼の机の上には中国語の新聞が。試しにと思い、中国語で話しかけてみたら、やはり通じた。彼の話す普通話は少し拙い。工具屋の場所をきいて、どうもありがとうございました、と店を出ようとすると、オジサン、まあ茶でも飲んで行きなさい、と言う。せっかくなので、いただくことにする。


改めて店の中を観察すると、やはり対聯は貼ってあるし、中国式神棚はあるし、中国の習わしにのっとっているようである。店は車のタイヤを扱う店で、老夫婦2人で経営しているとのこと。老婦人が緑茶と、つき出しにゆで卵を出してくれた。緑茶は、商売関係で日本に行ったとき買った、という日本製の緑茶だった。


オジサンの話によれば、彼の祖父の代に、一家で広西省からタイに渡ってきて、商売を始めたらしい。50年前くらい昔までは、タイによる排華運動がひどかったが、いまではタイの華僑はもうタイに同化していて、同化しすぎて祖先の言語も忘れてしまうほどだという。よって、自分の話している中国語は前に4年間かけて学んだものなんだ、とオジサンは語った。確かにオジサンの話す普通話はとてもゆっくりで、僕のヒアリング能力でもほぼ全て聞きとれた。タイ語の方がずっと上手いだろうに、それでも中国語の新聞を購読しているあたり、意地のようなものを感じた。


オジサンの言った、排華運動について一言書くと、排華運動は、まさに国内からの華人の追い出しのことで、特に東南アジアにおいて多く、今でもインドネシアフィリピン等の国では盛んらしい。何故華人が嫌われるかといえば、華人は国民総数で言えば国の5〜10%程しかいないのに、その少数で国の経済80〜90%を牛耳るからである。よってこの状況をよく思わない現地国民から追い出される。僕の留学先の海南島には、そうやって追い出された華僑が戻ってきて(帰僑・帰国華僑という)、プランテーションなどの技術を持ち帰ってコーヒー園などを興して、利益の要としている街が少なくない。


「タイでは、南に行けば行くほど中国語を解する者が増えてくる。マレーシアに入れば、さらに増えるはずだ」とオジサンは言う。あまり長居はできなかったが、老夫婦に別れを告げ、良い人達だったなあと感動しつつ、工具屋を探す。しかし、どれほどオジサンの指示した場所を探しても、工具屋はなかった。仕方なく、工具を手に入れることなく、バンコクを後にした。オジサン、結構いい加減だなあ。

プーケット島で会った台湾娘

タイも自転車で移動していて気付いたのが、街と街の間、国道沿いのどんな辺鄙なところでも広告・看板等の文字はきちんとタイ語+中国語で書いてある。こんな所にまで華僑は手を出しているんだなあ、という感じである。


僕らは自転車で移動していたので、1日の移動距離が限られていた。よって、名も知れぬ街で宿をとる必要があったのだが、そこで役立ったのが旅社の存在だった。旅社は、その多くが華僑が経営しはじめた安宿で、どの街にも1つはあった。大体、1日1部屋が300バーツ(1000円)ほどで、3人いるので1人あたま300ほどだった。安さの割に部屋はわりかしきれいで、安全性もまずまずなので、旅行中はゲストハウス等とともにお世話になった。


タイを南へ南へと進んでいったわけだが、タイで全く華僑の影響を感じなかった場所があった。ホアヒン・サムイ島、ビーピー島、プーケット島に代表とされるビーチリゾート地である。観光地なので当然のことながら西洋化がすごく進んでいて、食堂のメニューなども全部英語。中国語の新聞を見かけたのでまあ華僑もいるにはいたのだろうが、印象に残っていない。


プーケット島で、台湾からの旅行者と話をする機会があった。プーケットに着き宿をとり、自転車に乗り街を徘徊していると、プーケットで土産物屋を経営する日本人の老人に出会った。この老人、ケンさんという名で、土産物屋の名も「ケンの店」。タイ人の奥さんの助けを得、店をやっている。ケンさんは出身が京都ということもあり、僕らはすっかり意気投合した。ケンさんは僕が中国語を少しできることを知ると、「ここって、中国人の客も観光で結構来てるから、中国人が来たら客引きしてくれよ。」などと言う。僕達は即席の呼びこみとして働くこととなった。


いざ、座り込んで通りを行く人々を観察する。プーケットはかなり有名なビーチの街である。この店はその目貫き通りに位置しているので、人の往来もせわしい。僕は日本人は当然多いだろうと思っていたのだが、通り過ぎていくのはほとんどが白人。僕達がこの店で客引きをした3日間はちょうど日本のお盆の時期で、日本からの旅行者はきっと多いはずだ、と思っていたが、それほどでもない。ケンさんに、「こんなもんすかねえ」、と聞くと、「こんなもんだよ」というお返事。それなら中国人はもっと少ないだろうなあ、と思っていた矢先に店を訪れたのが、台湾から観光で来たという2人の娘さんだった。


中国語で話しかけてくる日本人の僕に、最初は怪訝な表情を浮かべていたが、なれてくると色々と話をしてくれた。2人は、台湾の高雄からきており、中学校の先生をしているという。高雄もかなりの暑さだそうで、スキューバをすれば美しい珊瑚礁も見ることができるらしい。考えれば台湾は沖縄の西南に位置しているが、あまり台湾に南国的イメージを持っていなかったので、少々驚いた。2人は学校の夏休みを利用して観光に来ており、同僚の面々もほとんどが海外・中国などへ旅行に行っているのだそうだ。中国へ行くにも台湾人は回郷証や探親証、もしくはパスポートが必要になるので、海外旅行の感覚ね、と2人は言う。それにしても、2人とも、とても先生をやっている年齢には見えない。顔立ちが幼すぎる。


これは中国人、とくに海南人について思うことだが、中国の学生は一見するとすごく幼い。女子が顕著で、大学生の女子は高校1年生、高校の女子は小学6年生くらいに見える。背も皆低い(ちなみに海南人の平均身長は全国で1、2を争う低さらしい)。これは食生活や気候と関係するのだろうか。学生の普段食べる「快餐」を見ると、まあこれを食べてれば太りはしないな、と思うし、海南島に関して言うと、3月から10月にかけては日中、かなり暑いので食欲も失せる。食事を取ってもすぐに汗をかいて消費してしまう。この2人の台湾娘も、すくなくとも僕と同じ歳とは思えなかった。ひとしきり、彼女らに店の商品を勧めるも、2人とも結局何も買わず。プーケットの夜に消えていった。


ビーチにおいても、中国人に関して思うことがある。中国で唯一とも言える上等なビーチを保有する海南島でもしばしば思うことだが、中国人はビーチに来てもあまり泳がない。寝苦しい格好をして、日傘をさし、変なポーズをとってはひたすら写真を撮る。奇妙に思い、前に中国人の友達に言及したことがある。「なんで泳がないの?」「どうせ泳げないし、それに太陽がこんなに照ってて、日焼けしたらどうするの。」「はあ?」と思う。泳げない、というのは仕方ない。


中国の大陸において、一体どこで泳ぐのか。中国人はあまり水泳は得意でないであろう。日焼けについては、中国に来て初めて知ったことだが、中国人は女性はもちろん、男さえ日焼けすることを極度に嫌う。僕も、海に行って日焼けして戻ってくると、そんなに日焼けしてどうしたの、と聞かれたことが何回もある。日焼けをするとカッコ悪い、らしい。中国人は、肌が白いことが一種のステイタスシンボルであるようで、「日に焼けている=毎日肉体労働(もしくは比較的文化程度の低い仕事)をしている」という固定観念があるのだそうだ。それではいつ泳ぐのか。ある日、中国人の友人に泳ぎに行こうと誘われたことがある。指定された待ち合わせ時間はなんと夜の9時。


マジかよ、と思いつつビーチへ足を運ぶと、ビーチは端から端まで溢れんばかりの人がいた。これには思わず脱帽の思いだった。そんなにまで日焼けが嫌か。さらに、僕が中国人との交流の中でうすうす感じることだが、中国人が黒人に対して持っている差別感はかなりのものではなかろうか。が、さしたる確証も無いので、断定することはできない。これも肌の色に関わっているのかもしれない。


さて、ケンさんとプーケットにも別れを告げ、僕達は更に南へと向かった。タイも大方見て回り、仕上げは国境越えである。旅行前にタイ人の友達から「国境付近は今でも山賊がでるから、十分気を付けろ」と言われていたので用心して自転車をこぐ。確かに国境へ近づく程に怪しげな道になってくる。それでも何とか国境の街バタンブサールに着く。言っちゃあ悪いがものすごいサビれよう。この国境を徒歩や自転車で越える人はやはり少ないようで、汽車、車、バイクの単なる通過点にすぎないのだろう。が、奇跡的にこの街でホテルが見つかり、宿をとることができた。宿をとってから気付いたが、このホテル、いわゆる連れ込み宿。怪しい男達の往来と行き交う女達、怪しい雰囲気に怯えつつ、サビれた国境の夜をすごした・・・・・。

華僑だらけのマレーシア

タイでは国民の約10%、マレーシアでは約50%、シンガポールでは約70%が、華僑の占める割合であるという。この数字を証明するかの如く、マレーシアに入ってからは中国語を使う回数が増していった。


タイ・マレーシア間の国境は、すんなりと通過することができた。時差が1時間あるので、時計を進める。当然ながら出入国審査官の話す言語も違うのだが、初めて陸の国境を越える身としては、いささか不思議な感じがした。陸の国境にも免税ショップはあった。


マレーシアに入ってすぐ思ったことは、道路の舗装がものすごく行き届いているということ。タイ側の荒廃したイメージとは、まるで違っている。とにかくどこへ行ってもマレーシアの道は整っていた。


国境より自転車をこぐこと3時間、カンガーという街に着く。ここでも萬昌旅社という華僑経営の宿に泊まった。料金の方は1部屋30Mリンギット(約900円)。やはり安い。荷物を置き、カンガーの街を見物。この街はかなり小さな街で、街の端から端まで歩いて30分ほどである。また、華僑の住む地区とマレー人、インド人の住む地区がはっきりと区別されていた。とりあえず唐人街、チャイナタウンに向かった。唐人街のメシ屋さんはまさしく中国式。近くのレコード屋さんには張学友・任賢斉など、中国で売られている歌手のCDが沢山売ってある。彼らの話している言葉は皆福建語だが、普通話も十分通じる。面白かったのは、貨幣に関する中国語。マレーシアには、リンギットとセン(中国の角に相当)という貨幣があるのだが、買い物をすると、レジの人は例えば4リンギット60センが合計であれば”四元六”という。リンギットも元と言ってしまうのだなあ、と感心した。他にも、「一塊一」を「塊一」と省略したり「両塊五」を「両塊半」と言うなど、中国ではあまり聞き慣れない表現を耳にした。


マレー半島で話されている中国語について、カンガーより南にあるアロースターで泊まった遠方旅社の主人が、少し語ってくれた。マレー半島で話されている中国語のことを、現地の人々は「普通話」「国語」などとは呼ばない。「華語」と呼ぶ。チャイニーズではなくマンダリンである。なんで国語と呼ばないんですか、と聞くと、「俺達は華人だからさ」と言う。国は離れるが祖先の言葉は大事にしよう、ということで、華語の教育は熱心にされているという。よって、家の外では主に英語を用い、家に帰れば家族は華語で会話をするのだそうだ。シンガポールなどでは、デパートの壁に「推広華語、請講華語」と書かれた貼り紙がしてあるのをよく目にしたりもした。中国の方言地区なら、「推広普通話、〜」となっているところである。


では、多民族国家であるマレーシアで、中国人がマレー人、インド人らと商売の話などする場合にはどうするのか?、と、華僑のタクシードライバーに聞いてみたところ、基本的にはやはり英語を使うらしい。が、マレー語に長けた中国人や華語の達者なマレー人も多いという。何にせよ、英、広東、マレー、華、福建、など各種の言語が入り乱れるマレーシアでは、ただのバスのチケットも、以下に示すように、きちんとそれぞれの言語で構成されているのだった。

クアラルンプールの家具工場

さて、道に迷っては中国語で道をきいて、と繰り返して来た自転車での旅行も、マレーシア・ペナン島が終着地点となる。ずっと頑張ってくれていた自転車も、ペナン島に到り着き、とうとう大破してしまった。仕方なく、終点のシンガポールまではバスに乗って向かうこととなった。


ペナン島においても、旅社に泊まった。ここも中国人が多い。が、島内は漢字の看板で埋め尽くされてているものの、島の雰囲気は洗練された西洋の街、という印象を受けた。道路、街並み、どれをとっても整然としていて無駄がない。その分、何だか味気ないとも言える。それでも少し路地裏に入れば、いわゆる中国式住宅、中国式屋台が軒を連ねていて、へんな感じである。ちなみに、屋台の料理は中国本土のものより断然おいしかった。こういう”一見西洋風なんだけど道に並ぶのは中国式建築”という印象は、後に行ったマラッカ・ジョホールと言った街でも、同じだった。


ほどなく、僕達はマレーシアの首都クアラルンプールへと向かった。クアラルンプールはK.L.と略称される。僕達はK.L.に訪れる場所があった。


夏休みに入る前、一人の老人がうちの学校を訪れた。中村さんという名で、2週間ほどうちの宿舎に滞在した。彼は東南アジアにいくつか工場を持っており、K.L.にも工場を経営している。僕が夏休みにマレー半島へ旅行に行くことを知ると、是非とも寄っていって見学してくるといい、と言ってくれたのである。


というわけで、K.Lに着いた後、早速工場へと向かった。工場はK.L市内から郊外バスに乗って1時間半の距離にある。工場が沢山集まり、団地を形成している。民家はあまり見あたらない。中村さんの名刺にある住所を頼りに、工場を探しあてた。この工場の社長をしているのは中村さんの息子さん、中村一郎さんである。工場に着くなり、社長自ら工場の説明をしてくれたり、見学に連れて行ってくれたりした。


工場は、家具を扱っている。材木切り・組み立て・仕上げ、と作業工程により建物も区分されている。一つ一つの建物はとても大きく、体育館並の大きさであった。作業はベルトコンベア式のライン作業で行われ、仕事ははかどっているようだ。作業をしている職員は、様々な国籍の人々で形成されている。


中村社長によれば、全工職員は200人程で、タイ人、マレー人、インドネシア人、パキスタン人、中国人が働いているという。言語は英語を共通語としてる。見学中、職員が中村社長を見かけると、「ハロー、イチロー!」などと、屈託もなく呼びかけたりしていた。社長はかなり慕われているのだなと思った。


それにしても、ただの角材が、みるみるうちに百貨店に展示販売してそうな高級家具に姿を変えていく光景は、すごいものがある。材料となっているゴムの木は、マレーシア産のゴムの木だが、このゴムの木も、以前にはただ燃やして処理するしかなかったという。それが、ある日本人の長年にわたるけんきゅうにより、防腐などの様々な条件をクリアーし、今日の実用化に至ることができたらしい。先人は偉大である。


また、工場を建てる際、何故マレーシアを選んだのか、というのにも理由がある。東南アジアに工場を作るのは、やはり人件費が日本に比べ格段に安いうえ、材料の入手も容易にできるからである。最初は、中村さんの工場をタイかインドネシアあたりに建てよう、という話だったらしい。が、規定では、タイ、インドネシアにおいては資本の51%以上は現地側の資本でないといけなくて、日本側に経営権を得ることができない。マレーシアにおいては、そういう規定が無い、というわけでマレーシアに工場が建ったのである。ちなみに、ここで作った家具は100%、日本に発送される。やはり日本側に経営権が持てないと、発送する際にも色々と面倒なのだそうだ。


K.Lには、現在1万人くらいの日本人が在住しているらしい。工場にいる日本人は、中村社長とその奥さんの2人だけ。2人は7年前にこっちに来て、仕事もだいぶ慣れたよ、と言ってはいるが、多国籍で習慣や仕事に対する観念の異なる200人余りの職工員をまとめるのは楽な仕事ではない。中村夫婦は昼飯もごちそうしてくれて、最後まで親切であった。日本に帰ってから家具を買うことがあったら、迷わずここの工場の作った家具を買おう、と僕は心に誓った。

華僑の築いた夢の島? シンガポール

シンガポールは人口300万人を擁し、前述のようにその7,8割りは中国系住民で占められている。そしてその多数は福建省出身の人々だという。19世紀の前半にまず福建、次に広東省、潮州、海南島から、大量の中国人が貿易、産業のためシンガポールにやってきたそうだ。貿易などで商売を始めた中国系住民が発展させてきたシンガポールは、1965年のマレーシアからの独立などを経て、今ではASEAN諸国の代表として世界の経済をリードしている。


留学先の大学の先生が、「中国人は、海外においては腕利きで、とても頼りになるが、国内においては、怠惰で、行動力が無く、アテにならない。」と言ったことがある。旅行中、僕は中国華僑の生活力を、この目で確かめた。彼ら華僑に行動力があるのは、「海外に移住までして、これで失敗したら、それこそ国内の奴らに笑い種にされちまう」「絶対に成功して、堂々と故郷に錦を飾ってやる」という、後のない、逃げ場のない、ひたすら前向きな気持ちがあるからではないだろうか。


だが、家具工場で副社長をしていた華僑のおじさん、それ以外に旅先で出会ったどの華僑に、「中国の実家に帰ったことがありますか?」と聞いても、返ってくる答えは「没有」だった。経済上、あるいは時間の都合で帰ることが出来ないのか、それとも長い歳月の流れのために、自分の実家にも興味を失ってしまったか・・・・・。何にしろ、自分達のルーツである土地に行ったことがない、というのは少し寂しいものがある。願わくば、彼ら華僑が一人でも多く、自分の故郷を訪れることができれば、と思う。


そして、国内の本家、中国人達も、華僑の如く前向きに、国際化の進んできた今こそ、一念発起して経済の発展に向けて頑張って欲しいな、と、高層ビルと漢字と英語と多民族の溢れる街・シンガポールで思った。


PAGE TOP