私の出会った人々 (Y.K.)

Y.K.


13億という膨大な人口がいるこの中国大陸で私はいったい、何人の人とすれちがったのだろうか。その中でもかかわりのあった人の数になるとぐっと減る。しかし、どれもこれもが大きな印象を残している。 国内どこにいてもよく目にするのが乞食である。駅に行けば必ずいるだろう。気がついたときには子供が周りをうろちょろとしていてお金をわたすまでつきまとってくる。そのお金はどこに行くのかと思って見ていると親の懐に入るようだ。


中国にいて買い物の時など気をつけなければならないのは、騙されること。ダマシに関連したことではこういう人にも出会った。


上海に行ったときの出来事だ。街をあるいていると、一人の男性が声をかけてきた。何かと思えば、その人は満州族の人で日本語がしゃべれるが、実際日本人と話す機会がないので近くの喫茶店でおしゃべりをしないかということであった。


どう考えても胡散臭く、その上時間もなかったので丁重にお断りした。あとでその人のことを知ったのだが、実はそのように声をかけて喫茶店に連れ込み、インチキな額を請求するという手口だったのである。巷ではこの様な人のことを「コーヒーにいちゃん」(珈琲哥)と呼んでいるらしい。


これと似たような手口は、杭州の街をぶらぶらしてるときにも出会った。一人のおじさんに声をかけられ、何かと思ったら、駅までの行き方を教えてくれ、ということであった。バスに乗ればいい、と教えるたらとんでもない答えが返ってきた。歩いて行く行き方を教えてくれという。どう考えても1時間半はかかる場所なのである。だからそのように答えると、突如「没銭、給我銭」と言ってきた。


バス代は1元で、おじさんの服装からしてどちらかというとお金をたくさん持っている感じの人である。私が渋っていると、突然屈みだし、顔を赤らめ今にも嘔吐しそうにゲホゲホしていた。あまりにも哀れに思いバス代を渡そうとしたが、体調が悪いにもかかわらず「給我銭」だけはしっかり言ってくるので、さすがに不審に思い、ちょうど近くに薬局があったので、「駅までの行き方は説明できない。それに体調をも悪そうなので薬局に聞いて!」と言ってその場を去った。


しかしそのおじさんは「小姑娘、等一等」としつこく追って来たので、さらに怪しいと思い小走りし、すぐさま後ろを振り返ると、あんなに具合悪そうにしていた人がすでに背後から消えていた。お金をくすねるのもいろいろ方法があるようだ。


呼和浩特から大同の間を一人で硬座に座った時のこと。2人がけを1人で座れてちょっとついているかも、と思ったのも束の間、途中の駅より乗ってきた1人のおじさんが私の隣にデカデカと座ってきた。いきなり座席でタバコを吸い始め、とんでもない奴だと思っていたら、案の定、公安の尋問にかかった。よくよく話を聞いてみると「没票、就是票」と「告状」と書かれた紙をひらひらさせている。


よくおじさんを観察すると、首には正面と横から撮った証明写真をぶら下げているのである。ますます怪しさ満載である。結局お金も切符もないので公安に引き連れられ下ろされていった。1人ということもあり、かなり動揺したが、向かいに座っているおばさんが心を和ましてくれた。おじさんのおかげでおばさんと仲良くなれたのである。


中国というところはまだまだ貧富の差が激しく、駅にいる乞食のような人はとどまるところがない。大同駅の待合室で時間をつぶしているときのこと、7〜8時間の列車の旅になるのでミカンで腹ごしらえをしていた。すると私の周りを全身真っ黒に汚れきった少年がうろうろし始めた。私が最後の一切れを口にしようとしたとき、少年はついに口を開いた。「請給我一個」と。


最後の一切れを逃してしまったらほんとに何にもありつけないので、勇気を振り絞って私に一声かけたのであろう。一切れのミカンを渡すと「謝謝」と一言残し、隅でたった一切れのミカンをうれしそうに口に運んでいた。しばらくして近くの椅子に腰掛け始めたが、周りの大人の中国人からは邪魔者扱いである。カバンの中にはまだミカンが2つ残してあったのでそれもあげると、またうれしそうな顔をして大事そうに何度もミカンを口に運んでいた。その後、私のそばを通るたびに、「ニコッ」と笑顔を見せるのであった。なんだか親もいず、家もないような子だったが、心の温かさを見たような気がした。


貧富の差は農村に行ったときにもはっきりと見てとれた。桂林に行ったときのことである。ひとりぶらぶら歩いていると、壮族の女の子(覃小蘭)に出会い、「聊天」しようということであった。旅の疲れと風邪をひいていたこともありそんな気力はないし、1人旅のときに誰にでもついていくことほど怖いことはない。しかし心を閉ざしてしまいすぎると、そこからなに世界は広がらない。


少しおしゃべりしてみて、怪しさはないと判断したので3時間ほど一緒に過ごした。どうも怪しいどころか、昔から友達だったかのように、とても気の合う子であった。別れ際にその子のポケットベルの番号を教えてもらい、桂林にいる間に暇だったら、一緒に遊ぼうということになった。


2日後、留学先杭州に戻る予定であったがチケットが取れず、3日も先に延ばさなくてはならなくなった。その時間を利用して1日目に出会った覃小蘭の実家・陽朔を訪ねることにした。交通手段が途絶え、荷車のようなものに1時間ほど揺られて行くしか、他にすべのないところだった。桂林・山水画の世界の主人公になったかのようだった。あたりは独特の山々。そして湧き水が流れていて、これは農村の人々のかけがえのない水だった。中国の水の事情とは全く裏腹に、ここでは飲むことができる。洗濯や、夏には水浴びやお風呂としても利用されている。そういったところで3日間を過ごすことになったのだ。


農村の生活とはどんなものなのであろうか?当然のことながら生易しいものではない。それどころか、みなが口々に「非常辛苦」と言っている。そして日本人という私をみるなり「日本非常発達」と言う。中国の農家では機械が全く使われておらず、すべてが手作業である。私も手伝ってみたもののそう簡単にできるさぎょうではない、とつくづく思った。女も男も関係なく、何から何まで、力仕事も、すべてをこなす。当然娯楽になるようなものは白黒テレビのみで、他にはなにもない。現代っ子にとってみれば、全く無に近い世界なのだろうが、ここではそれが当たり前なのだ。


私が泊めていただいたお宅の家長は、文化大革命の時に下放させられたが、農業のことを全く知らないため、息子の働きによって衣食住を保っていた。時にはわずかのお金をもらって近所の人たちとポーカーで賭け事をしたりするようである。子供達の遊びは大自然に出ていくことである。近所の子供全員が兄弟なのだ。


通常、日が出る前から落ちるまで働き続けている人たちの安らぎとは何なのか?小休憩、お昼時のおしゃべりのようだ。私もこのおしゃべりに参加してみた。その時に感じられたのは、どんなにしんどい作業をしていてもみんなの顔が幸せに包まれていたことだ。


私の突然の3日間の滞在にひとつも嫌な顔をせず、暖かく受け入れてくれた陽朔の人々に感謝の気持ちでいっぱいだ。この出会いと体験は私の中で大きなものとなっている。これからも覃小蘭とは長いつき合いになるであろう。


中国とはまさに人間の坩堝である。その中での出会いは無限であるが、私には限度がある。そのような中での人々との出会いは、いつも私に何かを見せようとしているように思える。

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