【文化学部】“花街文化” 歩いて学ぶ京都の歴史

2023.06.01

 文化学部京都文化学科では、京都文化・日本文化の理解を深めるため、オンキャンパスでの座学の講義に加えて、地の利を活かした京都ならではの地域へのフィールドワークを積極的に取り入れ、実際に京都文化を見て触れて、五感で感じとる体験型学習に力を入れています。また、文化の捉え方や調査方法など、文化学部の学びの土台となる基礎知識の修得も目的としています。平竹 耕三 教授が担当する「京都文化フィールド演習K」では、京都市内各所へ赴き、京都文化に直に触れる機会を大事にしています。今回は、衹園の街を歩き、その歴史を紐解きながら、改装された歌舞練場で花街文化を学びました。
(学生ライター 法学部4年次 八木一真)
八坂女紅場学園の鷲頭 雅浩 氏から説明を受ける受講生
 学生たちはまず、八坂神社で「ぎおん」の由来について学びました。江戸時代まで、八坂神社は「衹園社」と呼ばれていました。現在の名前になったのは明治時代以降です。八坂神社で祀られているスサノオノミコト(牛頭天王)がインドの衹園精舎の守り神だったため、日本で信仰されるにあたり、八坂神社で祀られたことが由来となっています。
実際の街並みを見学しながら、衹園東エリアの説明を受ける
四条通の北側で五花街の一つである衹園東エリアに移り、お茶屋について学びました。そのあと京都最大の花街・衹園甲部エリアに行き、更にまちの歴史を学びました。昔、京都にはお茶屋さんが多くありましたが、現在ではその数はかなり減ってしまい、衹園の北側エリアでは15軒ほどしか残っていません。理由として戦時中の建物疎開が原因にあります。空襲や火災から逃げるために、建物を壊して道を作ったためです。また、戦後は客や芸舞妓の数が減ったり後継ぎがいなくなったりしたことも理由として挙げられます。
仲源寺に向かう受講生
南座の東にある仲源寺では、「めやみ地蔵」についての説明を聞きました。江戸時代以前、鴨川の周辺は水源の影響で、雨が降ると洪水が多発していました。鴨川の近くにある仲源寺では「雨やみ地蔵」をお祀りしていますが、1670年ごろに堤防を作り、水があふれることを防いだため、現在では「めやみ地蔵」とよばれるようになりました。このお地蔵さんは片目が充血しており、代わりに厄を被ってくれるという言い伝えから眼病にご利益があるとされています。
昔の街並みが残る衹園町南側エリア
その後、衹園町南側エリアへ行き、衹園町北側と衹園町南側の違いについて学びました。北側エリアと比較して、南側エリアは建物も昔のまま残っており、お茶屋も多く残っています。その理由として、八坂女紅場学園1が周辺の土地を所有しており、地域と連携してお茶屋の形や景観を守るため、現在までその形を守り続けているからだそうです。
実際に歌舞練場の内部で説明を受ける
 最後に、今年(2023年)改装された歌舞練場を訪問し、中庭や茶室を見学、建物の造りや戦時中の使用方法について学びました。歌舞練場は戦時中、風船爆弾を作る軍事施設として利用されていました。戦後は、GHQがダンスホールとして使用し、昭和28年ごろに現在の歌舞練場になりました。学生は舞台を前に説明を聞くことで、より具体的なイメージをつかんでいる様子でした。
 1女紅とは、女性の手仕事のこと。明治の初めに花街で働いていた芸妓が身分解放令により失業をした際に手仕事を身につけてもらう場所として女紅場ができた。八坂女紅場学園は特に芸事に特化した学校である。


今回のフィールドワークでは、実際に現地に赴くことで、衹園周辺の知識を具体的に理解することができました。また、普段はなかなか入ることのできない歌舞練場の舞台袖や奈落 も見学することができ、とても貴重な体験ができたのではないでしょうか。普段何気なく通っている道や観光名所も、由来や建物の歴史を知ることでより一層楽しめますね。
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