【法学部】チェコ交換留学日記#7「チェコの建造物:街にたたずむ歴史の語り部」

2023.06.12

現在、中欧のチェコ共和国へ交換留学中の法学部4年次生の加藤 弦さんが、現地から留学レポートをしてくれました。
ぜひご覧ください!

チェコ留学日記#7

法学部4年次生 加藤 弦さん

Dobrý den!(こんにちは!)
法学部法律学科4年次生の加藤です。

私は今、本学の交換留学生としてチェコ共和国・オロモウツにあるパラツキー大学オロモウツ(Palacký University Olomouc)に留学しています。

チェコは、昔ながらの街並みがどの都市でも残されており、ヨーロッパの中でも特に昔ながらの風景が楽しめます。今回は、前回のチェコの歴史に引き続き、私が訪れてきた中で特に興味深い建造物を紹介していきます。

チェコの建造物

チェコの地理関係と主な都市(作成・加藤)

プラハ(Praha)

プラハの天文時計(Prague Orloj)

ヨーロッパ文化の中心地として名高い、首都のプラハの象徴ともいえる建築物がこの旧市庁舎と天文時計です。

天文図や時報を知らせる人形などが印象的な天文時計(オルロイ)は、1410年に設置されたプラハのシンボルです。
何度も故障などで止まってしまいましたが、そのたびに修理されて美しい姿を維持してきました。しかし1945年のソ連軍侵攻の際に、プラハを占領していたナチスドイツの抵抗によって大きな被害を受けます。そのため現存するオルロイは、厳密には1410年からあるわけではなく、再建されたものになります。

天文時計は、上下2つの大きな時計盤と、上にある仕掛け人形で構成されています。上部(青と赤の時計盤)は主に太陽・月から時間を示しており、日の入りの時刻までも知ることができます。青の部分が日が昇っている時間、黒の部分が夜間です。

一方、下部の時計盤は日付を示しているカレンダーです。キリスト教が盛んな国では一般的な、いわゆる「Name day」(聖人の記憶日)が日ごとにびっしりと書き込まれています。名前はチェコ語になっているため、チェコではメジャーな名前をここから知ることもできます。

市庁舎下にある天文時計(オルロイ)

プラハ城(Pražský hrad)

旧市街からカレル橋方面に向けてヴルタヴァ川を目指すと、対岸の小高い丘の上に見えてくるのが、プラハ城です。
「城」という名前ですが、我々日本人が想像するようなものとは異なり、城壁に囲まれた中に聖ヴィート教会をはじめとする教会群や、王宮、庭園などの施設が備わっています。
その歴史は古く、9世紀頃に建設され、ハプスブルク家の支配下でその役割を果たし、プラハ窓外投擲事件の舞台となるなど波瀾万丈な半生を送りました。

現在では城内に大統領府が置かれており、就任式をはじめとする各種行事はここで行われます。

以前のミロシュ・ゼマン大統領時には、テロ・感染症対策で金属探知機・持ち物検査などの厳しい警備が敷かれていました(観光客による長蛇の列が毎日のようにできていた)が、2月の大統領選挙で当選を果たしたペトル・パヴェル大統領は、公約の一つであったこれの撤廃で、「国民に解放されたプラハ城」を作り出しました。今現在では、セキュリティチェックもなく快適に出入りが可能になっています。

ヴルタヴァ川から望むプラハ城
プラハ城内にある聖ヴィート教会

オロモウツ(Olomouc)

聖三位一体柱(Sloup Nejsvětější Trojice)と市庁舎

世界遺産として登録されている、このバロック様式の聖三位一体柱は、18世紀にペストからの復興を記念して建設されました。

最上部にはキリスト教における三位一体、「父(最高位の神)」、「子(神の子、つまりイエス・キリスト)」、「霊(精霊)」があしらわれており、その下には精巧に作られた聖人像などとともに、礼拝堂が配置されています。ちなみに完成式典には、当時モラビア地方を統治していた神聖ローマ帝国皇帝のフランツ一世と、皇后のマリア・テレジアがそろって隣席していたそうです。

市庁舎に設置されている天文時計は、一見プラハにあるものと似ているように見えますが、少し地味な印象を受けます。それもそのはず、第二次大戦前までは、プラハのように豪華な塗装がなされていましたが、戦争で損傷を受け、共産主義時代に正式に再建されたものが現在まで存在しているからです。再建はされたもののその地味さから、一部では皮肉交じりに「Communist Orloj(共産主義の天文時計)」とも称されています。

オロモウツ旧市庁舎の天文時計
また、オロモウツ市内ではゴシック、ルネサンス、バロックからアール・ヌーヴォーに至るまで、様々な特徴の歴史的建造物が隣り合っており、まるで街をまるごと使った建築博物館のようです。
ルネサンス様式の旧市庁舎と聖三位一体柱
バロック様式のオロモウツ軍事病院。当時は修道院であり、今でもフラディスコ修道院(Klášter Hradisko)としてその名を残している。
新古典様式(Neo-classical)のパラツキー大学図書館。作られた当時は武器庫だった。

オストラバ(Ostrava)

ボルト・タワー(Bolt Tower)

オストラバは、かつては鉄鋼業でチェコスロバキアを支えていました。

1830年にその源流ができたヴィトコヴィツェ製鉄所は、1998年に操業を停止するまで、大きな6つの高炉をはじめとする施設で、製鉄作業を行っていました。操業停止後、一時はコンビナートごと解体するという案もありましたが、技術的なモニュメントとしてそのまま保存することとなり、現在は一部が現代的に改装され、タワーをはじめ、大ホールや美術館のような文化施設が設置されています。

ボルト・タワーは、以前は第1高炉の一部でしたが、2015年に展望台として整備されました。名前の由来は、かねてよりトレーニングでオストラバを訪れていた、男子100mの世界記録保持者であるウサイン・ボルトだそう。

ヴィトコヴィツェ製鉄所
ボルト・タワー

ブルノ(Brno)

トゥーゲントハット邸(Vila Tugendhat)

1928年に建設されたこの近代的な邸宅は、チェコスロバキアにある機能主義建築の中で、最も重要なものであると言われています。

設計したドイツ人のミース・ファン・デル・ローエは、外観から内装の細かい部分に至るまで自ら監修しました。当時としては斬新であったであろう、飾りの少ない洗練された建物は、歴史的な出来事の舞台にもなっています。

時は進んで1992年、チェコスロバキアが分離独立(いわゆるビロード離婚)する際、調印式はこのトゥーゲントハット邸で行われました。

個人的には、以前にドイツで見たバウハウスのようなシンプルな建築が好きなので、内部を詳しく見学できなかったものの、外側からでも十二分に堪能することができてとても良かったです。

トゥーゲントハット邸
一部は予約なしで無料見学も可能。建築家のミース・ファン・デル・ローエは、家具もこの邸宅向けに設計した。

チェスキー・クルムロフ(Český Krumlov)

チェスキー・クルムロフ城(Státní hrad a zámek Český Krumlov)と歴史地区

チェスキー・クルムロフは、南ボヘミア州にある小さな街で、プラハから3時間弱で向かうことができます。

この街の歴史地区は、その美しさから世界遺産に登録されており、日本ではあまり有名ではないものの、チェコの有名な観光地の一つとして多くの観光客で賑わっています。

チェスキー・クルムロフ城は、プラハ城に次ぐチェコ第二の規模を誇る古城です。13世紀頃に建設が開始されてから、街はヴルタヴァ川を通した通商で栄えました。ちなみに、古くからこの領地を持つ領主は、王国内最大の領地を手に入れるという言い伝えもあるそうで、数々の有名貴族たちがこの城と街を代々統治していました。

街には展望台がいくつかありますが、私が最もおすすめしたいのはチェスキー・クルムロフ城の塔からの景色です。城内にある博物館と一緒に入場することができ、塔からはヴルタヴァ川の流れと街、町外れの丘まですべて眺められます。

城の塔からの景色
街が比較的小さいため、徒歩でゆったり観光することも可能。
チェスキー・クルムロフの街

南モラビア州(Jihomoravský kraj)の風景

チェコ第三の都市であるブルノから南に位置する南モラビア州は、主にワインの生産で知られています。

個人のものも含めて数多くのワインセラーが各地にあり、あまり観光地化されていないローカルな雰囲気と共に、ワインを楽しむことができます。

私が行った集落は、普通のチェコの村とは異なった、さらに昔ながらの家屋が並んでおり、まるで映画のセットに迷い込んでしまったかのようでした。真っ白な壁に伝統衣装と同じような花柄のペイントを施した家や、石造りのレストランなど、まさにこれがチェコの原風景なのだな、と感嘆してしまうような景色が広がっていました。個人的には、チェコで訪れた街や村の中で、この集落が一番印象に残っています。

南モラビア州の集落まではトラクターで移動
南モラビア州の集落の様子
ブドウ畑が一帯に広がる
お邪魔させていただいたワインセラー。知り合いのつてを通した、個人ツアーでした。
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