【法学部】チェコ交換留学日記#6「チェコの歴史:紆余曲折の先にあった『世界一美しい国』」

2023.06.07

現在、中欧のチェコ共和国へ交換留学中の法学部4年次生の加藤 弦さんが、現地から留学レポートをしてくれました。
ぜひご覧ください!

チェコ留学日記#6

法学部4年次生 加藤 弦さん

Dobrý den!(こんにちは!)
法学部法律学科4年次生の加藤です。
私は今、本学の交換留学生としてチェコ共和国・オロモウツにあるパラツキー大学オロモウツ(Palacký University Olomouc)に留学しています。

今回は、複雑な過去を持つチェコの歴史について特集します。

チェコの歴史

プラハ旧市街広場にある天文時計(左・Staroměstský orloj)とティーン教会(右・Týnský chrám)

中世期にはモラヴィア王国(833~906頃)、ボヘミア王国(1198~)として独立していたのもつかの間、神聖ローマ帝国のカール4世(=ボヘミア王カレル1世)による積極的な併合政策によって帝国の領地となります。その後に待ち受けていた宗派に関する争いであるフス戦争(1419~1434)は、主にボヘミア(現在のチェコの西半分)で戦われます。この戦争の主人公であり、フス派創始者のヤン・フス(Jan Hus)は、この頃(1348年)設立されたプラハ大学(現在のカレル大学)の学長でもありました。

統治者がカトリック、民衆がルター派などのプロテスタントを支持していたことから両者の争いが頻発していた15世紀頃、フェルディナント2世がボヘミア王となってプロテスタントを弾圧すると、1618年にプラハ城で発生した民衆の反乱によって三十年戦争が発生しました。

丘の上に位置するプラハ城(Pražský hrad)。日本と異なり、聖堂や宮殿が集まって要塞化している。欧州では典型的な「城」の形をとっている。
三十年戦争の発端となった、1618年のプラハ窓外放出事件の絵画。不思議なことに、フス戦争と第二次大戦後のソ連支配の直前にも同様の事件がプラハで発生している。(プラハ城)
この地域がオーストリア=ハンガリー帝国の一部となると、スラヴ人(=チェコ人)の民族意識が刺激され、汎スラヴ主義という文化革命が起こります。音楽家のスメタナは、この頃に交響曲「我が祖国」で名を馳せました。今では、「モルダウ」という合唱曲でなじみのある方も多いかもしれません(「モルダウ」は第2曲)。
交響曲第9番「新世界より」で有名なドヴォルザークもこの頃に活躍した音楽家です。彼の作品の一つである「ユーモレスク」の第7曲も、聞いたことのある方は多いことでしょう。
オーストリア=ハンガリー帝国時代の礼服(国立博物館本館 / プラハ)
絵画では、チェコ出身のミュシャ(Alfons Mucha、ムハとも)がフランスにおけるアール・ヌーヴォーを牽引した人物であり、プラハには彼の美術館もあります。女性と花や植物などをあしらった細かな切り絵のようなデザインは、今でも多くの人々を魅了し続けています。
ちなみに、この頃の資料などはよくチェコ国内の博物館で見ることができますが、基本的にすべてドイツ語で書かれており、ドイツ語圏であったという名残が見られます。
アルフォンス・ミュシャ(ムハ)の作品。(ミュシャ美術館 / プラハ)
1906年頃の新聞を再現した展示。チェコ語ではなく、ドイツ語で書かれていることがわかる。(オロモウツ歴史博物館)
第一次世界大戦終結後、チェコは隣国のスロバキアと共に「チェコスロバキア共和国」として帝国より独立。この初代大統領であるトマーシュ・マサリク(Tomáš Garrigue Masaryk)は、かねてより帝国からの独立を求めており、チェコスロバキア建国の父とも呼ばれています。周辺国が次々と権威主義体制に移行していく中、彼は一貫してチェコスロバキアの民主主義を守り続けました。
トマーシュ・マサリクの像。ブルノにあるマサリク大学をはじめ、彼の名を冠した施設や広場は全土に存在する。(マサリク大学 / ブルノ)
ミュンヘン会談において、現在のチェコ西部のズデーテン地方をナチスドイツに譲渡する代わりに、ドイツと連合国側はこれ以上の領土の拡大を行わない、という協約を交わしました。しかし当時のドイツがそれを守ることはなく、1939年にはナチスによってチェコスロバキアは解体。チェコの大部分(ボヘミア・モラヴィア両地方)がベーメン・メーレン保護領として、終戦までドイツの支配下におかれました。
1930~40年代に、ドイツ語の地名も併記された通り名の銘板。ドイツ語の部分はペンキで塗りつぶされている。(国立博物館新館 / プラハ)
1945年にナチスドイツが敗戦、チェコはソ連軍によって解放されます。ここで平和が訪れたかと思われましたが、ソ連の圧力により「マーシャル・プラン」というアメリカ主導の再建プランを撤回させられるなど、次第にクレムリンの息がかかるようになり、1950年頃には産業国有化などで社会主義体制が確立されます。
チェコスロバキア時代を伝えるパネル展。産業に限らず、文化や交通など様々な分野で「1つの国家」として歩みを進めていた。(ブルノ)
共産主義時代のポスターやスローガン(共産主義博物館 / プラハ)
1960年には、「チェコスロバキア社会主義共和国」と国名を変更。しかし、次第に知識人を中心とした体制への批判が高まり、アレクサンドル・ドプチェク第一書記(Alexander Dubček)の「人間の顔をした社会主義」とも言われる改革を進めていきます。「プラハの春」として知られるこの改革は民衆に一定の希望を与えましたが、1968年8月20日、ソ連が国境線を越えてチェコスロバキアに軍事介入したことで幕を閉じます。独立と平和という夢をソ連による深夜の侵攻で打ち破られた事実は、チェコ人にとって忘れがたいものであり、”Cosy Dens(チェコ語:Pelíšky)”のような映画をはじめとして、様々な媒体で今でも扱われています。
1968年のソ連軍事介入の展示。(共産主義博物館 / プラハ)
プラハ随一の目抜き通りである、ヴァーツラフ広場にある聖ヴァーツラフ像。1968年に共産主義に抗議する大学生が焼身自殺するなど、チェコの歴史に大きく名を残す抗議活動はここで展開された。

1989年、民主化学生運動を治安部隊が武力鎮圧したことから大学・劇場を中心に抗議活動が活発化し、11月下旬に共産党政権が総辞職。ビロード革命は無事に成功し、1993年にはチェコとスロバキアが分離独立を果たしました。革命を率いたヴァーツラフ・ハヴェルがチェコ共和国初代大統領となり、その気さくなキャラクターと共に多くの国民から親しまれました。

現在は、今年2月の選挙で当選を果たしたペトル・パヴェル大統領がチェコを率いています。

あとがき

チェコはとても複雑な歴史を持ち、現在の国ができあがるまでに多大な犠牲を伴いましたが、その分、文化や技術が発展したことも確かです。私はチェコの歴史を様々な博物館や現地の人から学んだことによって、文化や国民的意識といった、よりディープなチェコに触れることができました。私が留学前に目標の1つとして据えていた、「自分が法学部で学んできた知識と興味を土台として、さまざまな角度からチェコという国を知る」ということを達成できたかなと思っています。達成できた時期は極めて遅いとは思いますが、これは法学部からの唯一の交換留学生として、チェコで生活した中での大きな成果ではないでしょうか。
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