私と野球とインドネシアナショナルチーム
〜インドネシア×野球=これからの目標〜

インドネシア語専修 4年次生 須田 彰克

 春学期の4月、ある授業中に安田先生から一枚のインドネシアの日本人向け新聞「じゃかるた新聞」の切り抜きをいただいた。その新聞には「バリ島初の野球場完成」という記事が載っていた。安田先生は私が野球サークル(京産大Bulls(正式名は届出団体軟式野球同好会Bulls))の主将をやっていたことと野球が大好きということもよくご存知だったので、このような記事をみせてくださったのだ。 記事には、野球場のオープニングセレモニーでグランドのホームベース上に一人の日本人が立っていて、テープカットを行っている姿が載っていた。その日本人の名前は野中寿人さん。もう7年間インドネシアのバリ島に住み、会社を経営しながら、野球チーム「BALI RED SOX」の監督をしている。この野球チームには一般の部と少年の部があり、一般の部には、現地で働いている日本人も数人在籍している。
詳しくは、http://www.bali-in-creative.com/参照。

 

 以前に安田先生から「将来どうしたい?」と聞かれ、私は「野球を小学校から大学まで続けています。永遠の野球小僧です。夢ですが、インドネシアには野球がないんで、野球を広めたりする活動なんかできたらいいですね…。」と答えていた。そのころはただ漠然とした“夢”で、自分がどのようにインドネシアの野球に携わるか、具体的な案は何もなかった。私はそのような活動をしている日本人は今までいないと思っていたが、実はいたのだ。記事を見た瞬間、「私も参加したい」と、気づいたころには、「BALI RED SOX」のホームページから野中さんのアドレスを入手し、現状を教えていただくなど、メールでやりとりをした。

 

そのうち、野中さんは、現在、バリ島ではなくジャカルタでインドネシアナショナルチーム(野球のインドネシア代表チーム)の監督であることが判明。ここで、野中さんが監督をされるまでのいきさつを説明すると、野中さんがバリ島代表チーム(ほとんどRED SOXのメンバー)を結成し、監督としてジャカルタの「PON(インドネシアの国民体育大会)」に出場し、いい成績(たぶん準優勝・・・)をおさめることができた。その後、アマチュア野球連盟から野中さんに対してインドネシアナショナルチームの監督の要請がきた、ということだ。このナショナルチーム結成の目的は、今年の12月の「ASIA SEA GAMES(東南アジア限定のオリンピック)」に野球種目で出場し優勝を狙うというものである。インドネシアが野球でオリンピックに出場するのは2回目。

 

 今年の2月に、野中さんが選抜を行い21人の選手が選び抜かれた。現在、選手、オフィシャルスタッフ全員がジャカルタの「HOTEL ATRET CENTURY PARK」に宿泊し、近くのスナヤン野球場で強化練習を行っている。

 

 私は以前から、今年の夏休みは1ヶ月間インドネシアの現地の生活を体感するために、ホームステイを計画していたが、野中さんとインドネシアナショナルチームのことを知り、「インドネシアの野球を見たい」と思い、出発前に野中さんに「グランドで会いましょう。」とメールを送り、日本を出発した。 そのホームステイ先は、ジャカルタ南方の「Lebak Lestari Indah」という場所で、そこに住む私の従兄弟の家にお世話になった(私の祖父がインドネシア人ということもあり、親戚がおり、その多くがジャカルタに住んでいる)。

 

 偶然、ナショナルチームの合宿を行っている「Senayang」まで車で30分という距離だったので、簡単に球場まで行くことができる。移動手段は、従兄弟の車に頼る。従兄弟は自宅で仕事をしているので、私が「・・・へ行きたい」というと、どこへでも連れて行ってくれた。

 

 初めて野中さんとお会いしたのは、ホテルの喫茶店で、練習後に会った。いきなり練習に顔を出すのは失礼かと思い、ホテルで会うことに。会った瞬間、握手をしたが、手の皮がボロボロなのに驚く。練習のノックで手の皮がむけてしまったのだろう。握手だけで練習のすさまじさが伝わってきた。そこでは野中さんの野球論、野球人生、今までにいたるまでなど約3時間にわたりお話しを聞く。私も自分が何者なのかと今までの想い(インドネシア×野球=これからの目標)についても話す。 早速、明日から練習に来てもいいということで、1回目は見学のみだったが、2回目からユニフォームを着て来いと言ってくださった。出発前に「もしかしたら・・・」と思い、密かにユニフォームは一式を持ってきていたのだ。

 

 ユニフォームを来て一礼してグランドに一歩踏み出した瞬間は、何か特別なものがこみ上げてきた。自分が、大学でインドネシア語を勉強しようと決めたときのことや、ある日、先生から一枚の新聞の切り抜きをもらってからのこと、自分の第二の母国(インドネシア)で自分の大好きな野球をやっているということ。つい何ヶ月前には、考えられなかったことが今現実となっている。このホームステイの中で一番感動した場面であった。 実際に練習に見学・参加して感じたのは、まず野球の環境が整っていないということ。グランドもソフトボールの球場だし、ボールは全部で50球ぐらいしかない。そのボールもボロボロで、テープで巻いたものもあれば、糸で縫い直したものばかりで、普段、私が練習で使っているボールの肌触りとは程遠いものがあった。野球経験者からすれば、古いボールと新球(おろしたてのボールのこと)では触った感覚(質感)はもちろんのこと、投げたあとのボールの伸びから全てにおいて変わってくる。このまま試合に臨めば、せっかく練習して身に着けたプロモーションを100%発揮することはできない。

 

 選手とのコミュニケーションはもちろんインドネシア語。練習の日程上、自己紹介なしでグランドに行ったので少し気まずい雰囲気が最初はあった。練習の合間に近くにいる選手と会話してみた。私がインドネシア語で話しかけると、「なんで話せるの!?」と皆驚いた。そのときは、選手たちにとって私は「野中さんが日本から連れてきた野球を教える人」として見られていたようだ。
 練習終了後、やっと自己紹介できる場があり、改めて自己紹介をする。練習時間が終われば、みなの顔は練習中の厳しい表情から一転、笑顔で私の周りを取り囲み、「どこからきたか?」とか「ごはん食べに行こう」など質問攻めにあった。選手は皆、陽気で日本人に敏感だった。というのも、日本はインドネシアより経済活動が進んでいるとことや、最近では日本のファッションにも皆が関心を持っているからだ。「ハラジュクスタイル」といって、東京の原宿ファッションをモデルとしているようだが、実は、私はどこが原宿なのか知らない。また、なんといっても選手たちが一番敏感だったのが「日本の野球」。選手たちは日本の野球を生では見たことがなく、ビデオぐらいでしか見たことがない。彼らにとって「日本の野球」はかなり上のポジションにあるように感じた。

 

 野球の練習中に使う言語はインドネシア語は当然であるが、英語も多かった。やはりアメリカからのスポーツなので基本的な単語、例えば、「ピッチング」「バッティング」「アウト」「セーフ」などそのまま使う。私は主にバッティングピッチャー(打撃練習用投手)を担当した。バッティングピッチャーは打撃練習用投手なので、必ずストライクをとらなければならない。私は大学でも投手をしていたのでコントロールに自信があったが、異国での野球で、緊張のせいか指先の感覚が普段とは違うコンディションだったので、ときおり高めに抜けてしまった。ちなみに、インドネシア語では高いの意は二つある。ひとつはtinggi。意は高さが高い。二つ目はmahal。値段が高いという意味。インドネシア語を使おうと、私の頭の中のスイッチはインドネシア語だったので、投げた瞬間「mahal!!」と叫んでしまった。もちろんバッターは首をひねっていた。とっさに日常会話でよく使っている「mahal」のほうが口にでてしまったのだ。やはり私の語学力はまだまだである。

 

 今後のインドネシアナショナルチームの活動は、10月10日から30日までの期間で、日本遠征を企画している。目的は大学や社会人との練習試合を通じて、実践的な練習をすること。インドネシアではまず練習試合相手がいない。なお、関西でのスケジュールは下記の通り。 宿泊所は、前半は天理大学の施設、中盤は川崎青少年の家、後半は代々木の国立オリンピック青少年センターに宿泊し、各地のチームと練習試合をこなす。この日本遠征には私(須田彰克)も同行する。報告はまた後日。

関西での練習試合スケジュール

帝塚山大学 10/11日午後 10/12日予備日
天理大学  10/13日午後 10/14日予備日
大阪商業大学 10/15日午後

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