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- 2013 Dec. Vol.62


コンサートなどのイベントの企画・運営はもちろん、アーティストプロモーションや音楽ソフトの開発など多岐にわたる事業を展開する株式会社サウンドクリエーター。その前身は、本学を含む4大学の学生と音楽好きの社会人がコンサートを企画・運営する同名のアマチュア団体だったそうです。
フォークシンガーを目指し、本学のフォークソングクラブ「フォークトレイン」に入部した鈴置さんは、クラブの友人に誘われ、サウンドクリエーターの活動に参加。バンド活動の傍ら、コンサートの企画や運営にも積極的に関わる音楽漬けの日々を過ごされたそうです。「当時の京都はフォークのメッカでした。日本全国からバンドが集まり、コンサートを通してさまざまな音楽好きの人々と出会い、刺激を受けました。街中に音楽喫茶があり、珍しい海外盤が揃うレコード屋や楽器店の数も多く、京都に来て本当に良かったと思ったものです」。そんな鈴置さんは4年次に、フォークイベントの最高峰「春一番」に出演。現在の「フジロックフェス」にも相当する名門イベントへ出演しながらも、それを機に歌手の道を諦め、裏方として音楽に携わることを決意されました。「当初はサウンドクリエーターの活動を通じ、プロの業界に自分を売り込むんだと意気込んでいました。しかし井上陽水をはじめ、多くのプロと関わるうちに、その実力に圧倒されたんです」。さらに、その決断には建築業に携わっていたお父様の影響も大きかったと鈴置さんは振り返ります。「父は有名人ではありませんでしたが、黒部ダムや関門海峡など、歴史に残る仕事に携わっていました。その姿が私には”無名の一戦士“として誇らしく思えました。ですから私も、父と同じように、音楽の歴史を作ると志を掲げました」。そして卒業後、鈴置さんは株式会社となったサウンドクリエーターの設立に参加。初年度の休みは約5日というほど、仕事にのめり込む毎日だったそうです。
学生時代の経験を生かし、企画・立案、広報、販売、運営…と、イベント事業の全てに携わりながら、新人アーティストのプロモーション活動も精力的に行った鈴置さん。1980年から7年間、KBS京都のラジオパーソナリティとして深夜番組にも出演し、多くの新人アーティストを世の中に広めました。その中の一人が、デビュー直前で未だ無名の尾崎豊でした。毎週、番組で曲を流し、その魅力を語るうち、尾崎豊への注目度は高まり、「コンサートを開催してほしい」というリスナーからの手紙が鈴置さんの元へ寄せられるように。「開催することは簡単でしたが、あえてファン同士が協力してコンサートを開催することを提案しました。私自身ステージに立っていましたから、彼の心情が分かる気がしたんです。彼のように歌う人は、ファンから呼ばれた方がうれしいはずだと」。鈴置さんはリスナーとともに「ヘッドライトクラブ」を結成。リスナーをサポートしながら、東京以外の都市で初となる、京都でのコンサートを実現に導きました。尾崎豊はその後、中高生を中心として一躍スターに。鈴置さんは当時をこう振り返ります。「『怒れる10代』と呼ばれていた彼を大人の手で売り出すのは違うと考えたのが功を奏しました。もちろん、あのコンサートだけでなく、同時にさまざまな動きがあってのヒットです。ただ、彼を支えた多くの人の一人として、歴史に関われたことを誇らしく思っています」。”アーティストの魅力をどう伝えるか“を第一に考える鈴置さん。「そこがクリエイティブで楽しいんです。今後も良い作品を世に広めることが私の使命であり、道楽です」。自身が仕事を楽しむことはもちろん、会社経営では「社員一人一人が自分の好きなことをする」を方針とし、個性を重視しています。単に利益のみを追わないスタイルは、アマチュアで活動した学生時代の感覚と同じ、と笑う鈴置さん。学生にも将来、好きなことで働ける幸せを感じてほしいと言います。「人と違うことを恐れず、大学でいろいろ試して、自分の可能性を広げてほしい。私も大学時代は多くの人に助けられたので、大人として、今後も挑戦する若者を応援したいですね」。