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- 2013 Jul. Vol.60
入社当時から、東京本社で大型コンピュータのマーケティングに携わってこられた藤野さん。花型部門にも関わらず、当初はとまどいがあったといいます。「入社時は関西勤務を希望していたので、3年後に異動願いを出すつもりで働き始めました。同期は有名大学出身者ばかりで初めは気負いもありましたが、ユーザーの要望を開発現場に伝え、技術者と一緒に新製品を立ち上げ、広告・宣伝や営業向けの研修などの販売プロモーションを実施、そしてまたユーザーの評価を開発現場にフィードバックするという流れの中で、お客さまからの感謝の言葉や、ものづくりに携わる喜びがやりがいになっていきました。日本を動かす中心地で働く魅力もあり、関西に帰りたい気持ちは、東京で頑張ろうという意欲に変わっていました」。その後も実績を積まれ、マーケティング担当として、2006年に始まった世界一のコンピュータづくりを目指す国家事業であるスーパーコンピュータ「京」開発プロジェクトに参画。「京」の開発目標は10ペタフロップスという当時のスーパーコンピュータの100倍の処理能力を目標に設定され、同時に実用化を見込み、省スペース、省エネ・省電力も目標に掲げました。驚きと共に、絶対に自社で取り組むべき事業だと感じたそうです。
「当時は、市場で汎用テクノロジーが重視されつつあった時期でした。ですが、それだけを追究していては将来的にメーカーの技術力も国の技術力も育っていかない。世界一を達成し、技術的に大きな飛躍を目指したいという技術者からの声を受け、ものづくりに携わる者として挑戦したいと感じました」。富士通としても相応の投資が必要となり開発リスクもある中、大きな経営判断が必要となりました。マーケティング担当として藤野さんが着手したのが、「京」の開発で培った技術をどうビジネスに活かすのか、市場トレンドを調査して10年先の市場予測を行い、投資回収のためのビジネスプランを立案することでした。「変化の激しい業界ですから、未来のことは断言できません。しかし、開発現場や我々事務方の熱い思いが経営幹部に通じたのか、『京』プロジェクトへの参画に会社としてGoが出ました」。
「京」の設計が順調に進み、試作段階に入った2009年。「京」の開発予算が事業仕分けの対象となり計画打ち切りの危機が訪れました。「国の方針転換にやるせない思いもありましたが、この事業で国にどんな利益を還元していくのかをよりシビアに検討する機会となり、開発の意義や、日本中の方々からの支えを改めて確認することができました」。継続決定の後は、これまで以上に国家事業として国民からの理解を得るため、情報公開に力を入れました。記者会見や小学生を対象とした工場見学、全国のイベントへの出展などの広報活動に取り組んだ他、内部での結束を強めるための決起集会など、人のつながりを作るイベントも積極的に行いました。「『京』のような巨大プロジェクトを成功させるためには、技術力は当然ですが、より大切なのは人のつながりだという経験から、顧客と開発現場、そして部署同士をつなぐマーケティングの役割を最大限に果たすことを意識しながら、プロジェクトを支えました」。
そんな中、2011年3月、東日本大震災が発生。「京」の製造に関わる関係会社の一部が被災し、6月に控えた世界一の認定が難しい状況に…。「一時は諦めかけました。ですが被災された関係会社の方々から、『ぜひ一緒に世界一を作りましょう』と言っていただき、想像を超えるスピードで復旧作業を進めていただいたんです。本当に人のつながりがプロジェクトを救ったと思いました」。急ピッチで開発が進められ、6月の審査で「京」は「世界一の性能」に認定。「7年ぶりに日本のスパコンが世界一になり、5年をかけたプロジェクトをやり遂げた達成感、そして今後の日本や世界に貢献するという使命感を新たにしました」。2012年に完成した「京」。今後はソフトウェア開発の促進や研究成果の公開を進めたいと語る藤野さん。学生時代にバンドでドラムを担当し、各パートの人や音をどう調和させていくかを考えた経験は、今の仕事にも通じると言います。「学生には、とにかく行動して欲しい、と言いたい。机の上やインターネットの世界だけでは本質は見えてきません。動けば何かが始まります。そして日本だけでなく様々な国の人とのコミュニケーションや文化に触れる機会を作ってほしい。今のビジネスはグローバルな視点が欠かせませんから。また、何かを選択する時はあえて難しい方を選ぶチャレンジ精神も大事にしてほしいですね」。