【外国語学部】オーストリアのParis Lodron Universität Salzburgで学んでいるドイツ語専攻 卒業生からの体験記
2023.12.14
初めまして。2018年に本学の外国語学部 ヨーロッパ言語学科 ドイツ語専攻を卒業した齊藤 聖です。
現在は、2023年10月からオーストリアのザルツブルクにあるParis Lodron Universität Salzburg で、Kommunikationswissenschaftを学んでいます。
今回、島先生とご縁があり、この体験記を書くことになりました。
ドイツ語専攻の学生や卒業生にとって何か役に立つことを願い、私の卒業後の進路やザルツブルクに至った経緯、大学生活についてまとめました。
そもそもドイツ語を勉強したきっかけは、いくつもありますが、何よりもまず海外サッカーに興味があったからです。幼少期から海外サッカーがとにかく大好きで、よく深夜のヨーロッパサッカーの試合を録画して朝に視聴していました。
そして、ドイツ語に魅力を感じたことも重要な動機です。日本にいると英語やアジア圏の言語に触れる機会があっても、ドイツ語を街中で偶然聴く機会はほとんどありません。だからこそ一度きりの人生、自分の好奇心のおもむくまま、ドイツ語をしっかり学んでみようと思いました。
今から思い返すと、少々漠然としていますが、この2つの大きな動機で私はドイツ語学習を始めました。
フライブルクは自分にとって初めての海外だった事もあり、特に印象に残っています。街並みや景色、時間の流れがとても遅く感じ、日本との違いを鮮明に覚えています。拙いドイツ語で文化交流をしたことも新しい世界が広がった感覚がしました。
「ドイツ語海外実習」でフライブルクに留学したことがきっかけで、ライプチヒへの1年間の語学留学も経験しました。ライプチヒでは地元のサッカーチームに所属していました。現地でサッカー大国の情熱に触れたことが、自分の将来に大きく影響しました。 この時から自分はドイツ語を使ってサッカーに関わりたいと明確に意識し始めました。ただ、ヨーロッパに特別なコネクションもなく、好きだけで夢が叶うとは思えませんでした。
だからこそ卒業後は就職せず、ドイツ語圏でサッカーに関わることを目標にしました。まずは情報を集め、知識をつけるためにドイツ語圏での大学進学を考えました。
ただ、計画していた未来予想図とは少しずれが生じます。
念願叶って2019年に渡独するも、翌年コロナで帰国を余儀なくされ、大学進学を断念。自分の目標を叶える事が出来ずここで諦めようかとも思いました。
ですが両親の理解もあり、ラストチャンスとして、2022年にオーストリアのザルツブルクに行き、ワーキングホリデービザを用いて語学留学を行いました。
留学先をザルツブルクに決めた経緯は、レッドブル・ザルツブルクという大きなサッカーチームがあったことに加えて、好きだったサッカー選手(Oliver Kahn)が引退後、ザルツブルクでスポーツマネジメントを勉強していたからでした。 ただ、一度は同じ大学で学びたいと考えたものの、こちらは私立大学だったので経済面で断念。それでもどうしてもサッカーにかかわりたかったので、スポーツジャーナリストを志し、Paris Lodron Universität Salzburgでコミュニケーション学(Kommunikatonswissenschaft)を専攻することを決意し、ドイツ語学習に励みました。
ザルツブルクでは午前中に語学学校に通い、午後はタンデムやドイツ語を話したい外国人向けの催しに参加していました。起きている時間はできるだけドイツ語に触れる機会を増やしました。
そして2023年5月、ようやく語学試験に合格し、大学入学許可をもらいました。 この時が1番嬉しかったです。
ライプチヒでの決意から、かれこれ数年もかかってしまいましたが、やっとスタートラインに立てたと思っております。
そして、2023年10月からザルツブルク大学で勉強を始めています。 日本の大学と違って、入学ガイダンスもなくいきなり授業が始まりました。 履修する授業自体は週に5科目と決して多くはありません。ただ専門用語が飛び交うため、可能な限り予習はしていきます。もちろん復習も必須です。
とはいえ授業は面白く、最近の講義では現代のデジタル社会における悪影響を考えたり、イーロンマスク氏がTwitterを買収した背景に注目したりとさまざまな観点からメディアについて考えています。
もちろん苦しい時や辛い時もあります。おそらくこれからもあるでしょう。私自身ドイツ語の実力はB2レベルで入学したので、語学の面ではまだ四苦八苦しています。周りは全員賢く見えますし、オーストリア人やドイツ人と同じ土俵で戦うので逃げ出したくなることもあります。
それでも「ドイツ語圏でサッカーに関わりたい」という思い、京都産業大学の卒業後もそこだけはぶれなかったからこそ今があるのだと思います。「好き」という原動力に助けられ、ここまでたどり着きました。