多様性の「活用」:予期せぬ結果を逃れられるか 2022.01.25

政界や経済界、大学界からダイバーシティが大切だというメッセージが頻繁に発信されるようになりました。人権意識の高まりと全く無縁な議論ではないと思いますが、均質な人々よりは多様な人々の方が新たな発想や価値を生み出す可能性が高い、ということが特に重視されているのではないでしょうか(リチャード・フロリダのクリエイティブ資本論参照)。もちろん、あらゆる多様性が肯定されているわけではない。商品になるような発想やモノを生み出せる多様性が想定されている(オーストラリアやカナダの多文化主義はこうした視点から批判されることが多い)。それにしても、その多様性が限定的なものであるとしても、権力の側に立つ者がそれを肯定的に扱うのは歴史的にみるとやや珍しいことです。(例えば2022.1.11の日経新聞では「ダイバーシティこそが「儲けの源泉」である」とされています。※1

既存の体制に反対する側が多様性を肯定する、というパターンの方が過去においては多かった。例えばマスコミの発展が大衆社会をもたらしていると言われるようになったのはやく100年前のことです。新社会の登場を歓迎する声が多かった一方で、テレビやラジオの普及が全世界の人々の思考や価値観の収斂につながり、権力者層にとって都合の良い従順で均質な消費者を作り出しつつある、という声が主にいわゆる左派の方からあがりました。

同じように主に左派の側から国際的なレベルではアメリカナイゼーションやマクドナルド化、文化帝国主義やワシントン・コンセンサスに対する批判が展開されました。資本主義的な価値や規範が欧米から世界中に広げられていること、そしてそのプロセスがもたらす均質化・標準化が欧米の支配力をさらに高めてしまっている、ということがそうした議論において主張されていました。

多様性の保障は実際に経済的利益の創出につながるのかどうか。マスコミの発展は実際に大衆の従属を強化したのか。社会的文化的経済的グローバル化は欧米のパワーを拡張させたのか。

カルチュラル・スタディーズの方からは、大衆が巧みにマスコミの情報を消費する、ということが指摘されました。大衆が一方的に資本の側に支配されることがなかったように、「弱い国」は「強い国」に文化的に支配されることもありませんでした。外来文化が受容され定着するかどうかにとって決定的なのが受容する側の都合である、ということが明らかにされています。また、経済的社会的文化的グローバル化は結局、中国やインドの上昇をもたらし米国覇権の終焉を早めている、という議論もあります。※2

支配や抵抗の作戦や戦術を人は好んで立てますが、思っているほど我々は全能ではないらしい(我々が自分達のことを「神」として誤認している、というルーマンの議論を大澤真幸は最近紹介しました。※3 ダイバーシティ・ブームがどういう結果につながるか予言することはできませんが、その推進者たちの期待が大きく外れる可能性がある、ということは間違いないと思います。
カナダの多文化主義政策は多様性を肯定する。政府が望むような社会的経済的状況がそれによって作り出されるかどうかは分からないが、さまざまな予期せぬ結果につながることでしょう…

Monument to Multiculturalism by Francesco Pirelli, Union Station, Toronto. Licensed under the Creative Commons Attribution 2.0 Generic license. Author: Robert Taylor from Stirling, Canada.

マコーマック ノア 教授

歴史社会学、比較文化論

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