分配と社会正義 2021.12.22

「分配なくして成長なし」「成長と分配の好循環」・・・。「分配」のあり方を変えようという岸田首相の主張は、「新しい資本主義」を掲げる新政権の目玉政策とされています。しかし現政権の問題意識に拘わらず「分配」は、人々にとっては自らの幸福に関する最も身近な関心事です。それゆえこの問題は、人類が社会生活を営み始めて以来、常に関心事項であり続けてきました。社会を考察対象とする諸学問もこの問題意識を共有し、資本主義の枠組みを前提とする議論だけをみても、20世紀以降には厚生経済学、社会選択論、政治哲学が主としてその担い手となってきました。

政府は分配によって社会全体の幸福を追求するわけですが、その際に重要になるのがそもそも社会全体の幸福とは何かという点です。上記の諸学問の中では、厚生経済学が最初に「社会全体の幸福が総計として最も大きくなる状態が望ましい」という考え方を示しました。この考え方がベンサムやミルの功利主義に近い主張であることは明らかですが、英米哲学・倫理学の土壌から生まれた厚生経済学にとって、この価値判断はむしろ疑う余地のないものであったことでしょう。

厚生経済学の特色の一つは、経済的富の保有をそのまま幸福の獲得とは捉えない点です。というのも、同じ水準の富を得ても、それに対する幸福の感じ方は人それぞれだからです。億万長者にとっての1万円はさしたる幸福ももたらさないかもしれません。これに対して、明日の生活に困窮している人にとっての1万円は大きな幸福になるかもしれません。そこで、富自体は(おそらく最も重要だけれども)人間の幸福を左右する一媒体に過ぎないと捉え、それが変換されて生み出されるのが「幸福」であると考えます。これは、個人の効用(utility)、社会の厚生・福祉(welfare)と呼ばれます。厚生経済学は、富の幸福への変換をモデル化し所得の再配分政策の是非を理論的に論じることを可能にした点で、実際の分配政策の立案に最も直接的に影響を与えてきました。

これに対して1960-70年代以降、「最も不遇な人々の状態を改善することこそが社会の厚生・福祉として望ましい」という考え方が関心を集めます。アメリカの政治哲学者ロールズの議論がその原点になっています。ロールズ自身の主張は1950年代からの諸論文によって徐々にそのかたちが見え始めますが、1971年の『正義論』の刊行によって政治哲学をこえ、厚生経済学者・社会選択論者の間にも一挙に広がります。ここに、分配による幸福の問題は社会正義の問題として捉えられるようになります。実際、厚生経済学・社会選択論においても、それまで当たり前であった功利主義的社会厚生関数に加えて、ロールズ的社会厚生関数の定式化が行われていきます。

これに関連する、より新しい議論として(といってもすでに40年ほど経過していますが)、1980年代ころからセンが提唱し始めた「潜在能力アプローチ(the capability approach)」というのがあります。そもそも富をいくら再配分したところで、それをうまく使って目的(センの言葉では機能)を実現することができなければ、人々は幸福にはなれません(「幸福」も効用のような単純な主観的判断では評価できないといった論点もありますが割愛)。そこでこのアプローチは、「実行可能な機能の選択肢」(これを潜在能力と言います)を各人ができるだけ多く持つことができ、それによってより自由な選択を人々ができるようにすることを重視します。そして、この潜在能力の広さこそが人々の幸福の基準になるべきだと考えます。ここでセンが念頭に置いているのは言うまでもなく、さまざまな価値剝奪のもとに置かれているために、再分配を行ったとしてもそれをうまく活用することができず、潜在能力の幅を狭められているいわゆる貧困層の人々です。この考え方は1990年代以降、国連開発計画の人間開発指数(HDI)にも反映されます。センの問題意識は、社会的弱者への関心という点でロールズ的社会正義を補強する議論であると言えます。

こうして21世紀の分配政策は、幾重にも社会正義の観点で捉えられるようになりました。岸田首相によって「新自由主義的」とされる小泉政権の経済政策以来、「成長か分配か」の議論はときに感情的と言えるまでにヒートアップしてきました。その背景には、現代の分配問題は単なるお金の配分の話ではなくなっているということがあります。それは、「正義の実現か、さもなければ不正の是認か」という、妥協が許されない正邪の選択問題として人々に迫っているのです。

文献案内

井堀利宏『入門 ミクロ経済学』第2版(新世社、2004年)。
Rawls, John, 1993, Political liberalism, Columbia University Press.
セン、アマルティア『不平等の再検討: 潜在能力と自由』(岩波現代文庫、2018年)。
 

山本 和也 准教授

 政策科学(主に国際政治を対象)

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