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- 2014 Oct. Vol.65


多くの人が1〜2年で辞めてしまう、というほど厳しい歌手の世界。その中で中森さんは全くの素人から、コンサート開催やアルバムリリースを果たし、2014年12月からはラジオ番組のメインパーソナリティを務めるまでになりました。挑戦したきっかけをお聞きすると、「初めはただの趣味のつもりだったんですけどね」と、笑顔で仰います。当時、京都で会社員として働きながら新しい趣味を探していた中森さんは、街で見つけた歌の教室に興味を惹かれ、そのまま入会。そこで歌うことの楽しさやシャンソンの魅力を知り、歌の世界にのめり込んで行きました。やがて「もっと上手くなりたい」という一心から、東京まで足を延ばして日本でシャンソンの第一人者と呼ばれる故・矢田部道一氏に師事。休日はほとんど歌の練習という日々が続き、いつしかライブハウスへ出演するようになりました。しばらくライブハウス付きの歌手として活動した中森さんは、フリーになることを決意。「やればやるほど、目の前に次の目標ができていくんです。
それを追っていたら自然とこの道を選んでいた、という感じでした」。大好きな歌の道を選んだ中森さんですが、間もなく、「全てが自分一人」というプロの厳しさに直面することになりました。「以前なら、ライブハウスがピアニストを呼んでくれて、私が何もしなくても伴奏してもらえたんです。それがフリーになったら、私からお願いしなければいけない。でも相手もプロですから、実力が認められなければオファーを受けてもらえないんです」。中森さんの歌を聞かないまま断られることもあったそうです。「名前も知らない新人なんて、信用できなかっただろうと今なら分かります。でも当時はやっぱり断られる度に悔しかったですね」。それでも中森さんは毎回のステージで真摯に歌い続け、その評判は次第に音楽関係者に広がっていきました。
プロとして自分の歌を磨くことに専念する中森さんを支えたのは、大ベテラン歌手からの「何がなんでもしがみついていきなさい」という一言だったそうです。若さや見た目だけではすぐに飽きられる。しかし実力で呼ばれるようになったら、一生仕事は途切れない。その言葉は、中森さんにとって大きな教訓となりました。節目節目でこうした周りの人からの助けを実感し、それに支えられて来たと中森さんは振り返ります。中でも、本学の卒業生同士のつながりの強さには驚かされたそうです。「小さなライブでも、どこからか情報を聞いて駆けつけてくださったり、アルバムを購入してくださったり…。しかも在学中に直接関わったことがない先輩方がたくさん応援してくださるんです。私が有名になって東京をメインに活動するようになったら、みんなで東京へ応援に行こう! とまで言ってくださったこともあったんですよ。周りの人に聞いても、そんな大学は珍しいって。本当に有り難いですね」。そんな支えに感謝しながら、これまで活動を続けてきた中森さん。今では、様々な演奏家や有名な作詞・作曲家ともチームを組めるほど、実力を認められています。ライブ活動に加え、意欲的に楽曲も制作。中高年の大人世代の人たちが、落ち着いて楽しめるオシャレな音楽を追究しながら、2014年にリリースしたセカンドアルバムでは、新しい曲調にも挑戦されました。「よく、歌い手が主役と思われがちですが、私は聴く人が主役だと思っています。お金を出してまで聴いてくださるのですから、私の想いだけではいけない。マーケティングのように、目に見えないニーズをすくい取って、きちんとした“商品”として喜ばれるものを作るのが、プロとしての使命だと思います」。歌手も、他の仕事と同じく社会の一員なのだからと中森さんは語ります。「どんな職業に就いていても、自分は社会人の一人だという意識が強くあります。今思えば、これは大学で学んだものだと思うのですが、この意識があったからこそ、地に足を着けて進むことができました。これから夢を追う人には、まずどう生活を立てていくかを真剣に考えて欲しい。社会人として覚悟をすること。それが夢を掴むための第一歩だと思います」。