京都産業大学キャンパスマガジン サギタリウス 2012 Jul vol.56
京都産業大学創設ヒストリア Vol.2 京都産業大学は、創設者・荒木俊馬の「わが理想の大学を創る」という強い信念のもと、本山の地に創設されました。どのように大学づくりに向かい、何故この本山の地を選んだのか。開学前後の3つのエピソードをご紹介します。。
夜久野の静けさの中、研究に励む日々
1945年、終戦の年。科学者、教育者として戦争への責任を感じた荒木先生は、教鞭を置き、夜久野での隠棲を決意しました。食料の少ない時代、一家5人を養うため自ら土地を耕すものの、ときにはヘビが食卓にのぼるほど食に苦心することも。そんな過酷な生活の中でも、尽きない天文学への情熱から、日々専門書を読みあさり、天文学書を発表しました。また、子どもたちに天文学を指導するなど、若者の教育にも意欲的だった先生は周囲の信頼を集め、1952年には夜久野の教育委員長に就任。静かな夜久野の地で、教育への情熱をさらに深めました。
そして、希望の地「本山」に出会う
1962年、「わが理想の大学を創る」と奮起した荒木先生は、用地探しに奔走しました。候補地の地図を片手に雑木林に分け入るも、理想に合う土地はなく、地図には赤い×印が増えるばかり。そして、「ここしかない」と最後の希望をかけて臨んだのが現在本学のある本山(もとやま)でした。そこには、歴史を刻む上賀茂神社の荘厳さが漂い、穏やかな山林が広がっていました。ここなら市街からのアクセスもよく、落ち着いて学問に集中できる。「本山を建学の地とする」と荒木先生は決意し、ここ本山が京都産業大学の礎となったのです。 
2学部3学科から始まった理想の大学
開学同時の通学風景
開学時、唯一の学舎であった本館
山を切り開く大がかりな工事を急ピッチで進め、開学直前にようやく本館が完成。開学当時の京都産業大学は、経済学部経済学科、理学部数学科・物理学科の2学部3学科という学部学科編成でした。経済大国日本の将来を担う「経済人」、独創的な「科学者」と「技術者」の育成を軸に、「世界の舞台で尊敬されるにふさわしい」人材づくりを目指し、京都産業大学は歩み始めたのです。
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