入賞

「当時の自分、今の自分。」

法学部 法律学科 1年次生 坂口 慎也

審査員講評

 この作品では、震災前後の筆者の心の変化が、具体的な経験を通じて、伝わってくる。

 例えば、筆者は、震災が起きた直後、現実味が湧かず、あまり関心を持てずにいた。しかし、震災で父親を亡くした家族のことを知ったのがきっかけで、震災が他人事ではなくなる。そして、当初、無関心であった筆者が、何か助けになることをしたいと思うようになり、最終的には、「法律の知識を活かして困った人を助ける人間になりたい」という目標を持つ。

 筆者のエッセイは、文章の流れについて、いくつか改善すべき箇所があった。しかし、「何か助けになることをしたい」という漠然とした思いではなく、人々の役に立つために、法律という具体的な手段・方向性も打ち出したことは高く評価したい。筆者の将来に期待している。

作品内容

「当時の自分、今の自分。」坂口 慎也

 今から、約7ヶ月前、私は、まだこの大学に入る前で、受験が終わったばかりで、疲れきっていた。そんな折、あの惨劇が起こった。東日本大震災である。

 「やる気でねぇー。」そんなことを毎日言っていた。3月のはじめ頃、私は、自分の志望していた大学への進学に失敗し、意気消沈していた。というよりも、自分にたいして絶望していた。この時、私は、「自分はどうしようもないほどのダメ人間だ。」などと思ってしまうほどショックを受けていた。傍にいた人々からすれば、そんな私の様子は落ち込みすぎていて、見ていてイライラしたらしい。家族にも、「そんなに気を落とすな」と言われたものだ。その大学の不合格を知ってから、約10日間、私は、食事や風呂に入るとき以外、あまり誰とも会おうとしなかった。会うと、落ちたことが情けなくて、泣いてしまいそうだった。なぜそんなことを考えていたのだろうか?今から思うと、くだらない理由だった。それは、私が、その大学に入れば、その時、抱いていた夢にたどり着けるかもしれないというちっぽけな期待を持っていたからだ。そのちっぽけな期待を打ち破られた私は、何もやる気が起こらず、受験での後悔を募らせていた。そんなことを繰り返し考えて、日々を無駄に過ごしているうちに、3月11日が来てしまった。

 その日、私は、風邪を引いて熱を出してしまい、ずっと布団に入っていた。受験の失敗もあり、余計にナイーブになっていたため、気分は最悪だった。その夜、体のだるさで、全く眠れない中、その震災は起こった。私の家も多少のゆれを感じた。私も気付いたが、頭が痛すぎたので、気に留めもしなかった。次の日、私は、熱が多少引き、起きていることができたので、テレビを見ていた。すると、東日本大震災のことが報道されていた「また地震か…。」そんなことを言っていたと思う。最初、いつもの地震のように、被害は、たいしたことはないだろうと思っていた。しかし、津波により、飲み込まれている街の光景は今までのどの地震。でも見たことがなかった。その津波を見た瞬間、私は、その津波の力に畏怖さえ覚えた。そして、その津波により、原発事故が発生したことも、分かった。確かに、どれも、驚きはしたし、怖いとも思ったが、その時の私は、このことに対して特に興味も湧かなかったなぜこう思ったのだろうか?おそらく、私が、そのような状況に置かれたことが無いために、その人達の気持ちを理解することができなかったからだろう。また、この未曾有の大惨事に対して現実味が湧かなかったこともあるかもしれない。私は、自分の周りで起こった不幸に対しては敏感だ。これは、他の人でも同じかもしれない。しかし、私は、他者の不幸を理解するのが、実に不得手だ。この性格のせいで、私は当初、あまり震災に関心を持たなかった。

 ある日、私が、テレビを見ていると、被災地の状況が映し出されていた。それは、父親を失った家族へのドキュメンタリーだった。その家族の父親は、一度、避難所に避難したが、逃げ遅れた人がいないか確かめるために、もう一度、津波が来る街に戻ったところ、津波に飲まれ、命を落としてしまったそうだ。その家族には、小さい子供が3人もいて、父親はその一家を支える大黒柱だった。その家族の悲しみはとても大きかった。その家族は、父親の遺体を見たとき、母親は泣き、長女は混乱し、長男は歯を食いしばり、次男は、兄の袖を握っていた。私は、この家族の悲しみが理解できた。私は、このとき初めて被災者達の心の痛みを実感した。家族を失う悲しみは、私にとっても、実に身近だったからだ。
 震災が起こる一年前、私は、大切な家族の一人を亡くした。思えば、唐突だった。元気だったその女性は、たった一週間で、見違えるほどに弱っていた。その女性はもう声を出すことも、目を開けることもできなかった。ガンだった。医者によると、進行が遅ければ、1年近く生きていられるとのことだった。ただ、世の中悪いことだけは良く続くものだ。彼女のガンは、進行が早いガンだった。私は、彼女に、今まで育ててくれたことへの感謝の言葉もわがままに接したことへの謝罪の言葉も言えなかった。私が、彼女に言えたのは、「また、家で、一緒に遊ぼう。」などという叶いもしないことだけだった。そして、彼女は亡くなった。実に、あっさりと、彼女は逝ってしまった。私は、胸に穴が開いたような喪失感に駆られた。同時に、彼女に、何もしてあげられなかった自分への後悔ばかりが募った。周りの人々は、「最後に会えたんだからよかったじゃないか」と言った。本当にそうか?私にはとてもそうは思えなかった。大切な家族を失った悲しみは、私の人生に大きく影響を与えたように思える。この出来事が、震災で父親を失った家族の気持ちを理解させることに繋がったと思う。確かに、状況も立場も違う。もしかしたら、私の悲しみと一緒にされたくないと思うかもしれない。しかし、私は、彼らの大切なものを失った時の喪失感だけは、理解できているつもりだ。

 この家族のニュースが流れた後、私の震災に対する考えは少しずつ変わった。ただ、もともと、感傷的な性格ではないので、大きく変わったとは思えない。しかし、このとき、私は、震災前に悩んでいた大学受験の失敗などというちっぽけな悩みをもう気にしてなどいなかった。それは、そんな小さなことに悩むくらいなら、これから、自分のできる範囲で、今回の震災で傷ついた人々やこれからの人災・天災で傷つくだろう人々を助けられる人間になるべきだとその父親を失った家族を見て思ったからだ。

 これを聞くと、綺麗事を言っているように聞こえるだろう。確かに、自分が聞いても綺麗事だと思う。しかし、助けたいという気持ちが間違いであるはずがない。誰にでもいろいろな形で彼らを助けることはできるはずだ。そして、今、私にできるのは、所詮、金銭や物資で助けることだけだ。そして、私は、彼らを救うことはできない。私には、彼らの悲しみも苦しみも痛みさえも取り除けない。だが、どんな形であれ、手を差し伸べることぐらいできるはずだ。私は、そう考えている。だから、私は、将来、人助けができる仕事に就きたいと最近、思い始めている。内容はまだ決めていない。だが、できるなら、法学部なので、法律で、困った人を助ける人間になりたいと考えている。そして、そうありたいと本当に思っている。

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