優秀賞

「現実の非日常」

経済学部 経済学科 3年次生 橋爪 明美

審査員講評

 この作品において、最も評価したいことは、文章が時系列で丁寧に構成されているということ、また、自分や周りの状況、自分の感情の変化を描く際の表現が非常に豊かであるということである。

 情景描写については、まるで、筆者の置かれている情景を目の前で見ているようであったし、感情表現については、筆者と母親との会話や、事実を初めて知った時の状況など、具体的なエピソードを通じて、筆者の不安感・心の葛藤が自然と伝わってきた。特に、東日本大震災が起きたという事実を受け止められなかった筆者が、ある出来事を通じて、現実と向き合おうとし、何かできることがないか考え、行動をおこすようになるまでの過程の積み重ね方は秀逸であった。

 筆者が、今の気持ちを忘れず、自分にできることを探し続けることを願うと同時に、審査員自らもそうでなければと改めて思った、そのような作品であった。

作品内容

「現実の非日常」橋爪 明美

 テレビをつけたら、何もかもが流されていた。
 その時、私は三重県にある実家に帰省する為、京都駅にいた。電車を待つ間、友人とケーキを食べ、お土産を買い、何事もなくホームに並んでいた。何も知らなかった、本当に、何も。その日は所属するオーケストラ部の出張演奏会の日で、朝から外で動いていたのだ。それが終わった後、すぐさま京都駅に向かったのだった。電車に乗り込む寸前、母親に電話をかけた。その時、母親は妙なことを聞いてきた。  「電車動いているの?」

 わたしは何のことか全く分からず、笑いながら当り前だと返した。少し疑問に思いながらも、特に深く考えることは無かった。電車に乗り、座席に着くとまた妙な感覚に襲われた。車内が何か、不安な空気で満たされている。誰もが携帯電話を縦、あるいは横にして、神妙な顔つきで見つめている。私は訳が分からないままに、同じように携帯電話を取り出し、テレビを起動した。

 M9.0の文字が、目に飛び込んできた。
 結局私の乗っていた近鉄特急は、私が降りる予定の駅から一時間半程離れた駅で運行を停止した。私の住んでいる地域は海沿いで、津波の心配がある為それ以上電車が動かなかったのだ。私は混雑するホームを抜け、何とか準急で行ける一番近い駅まで進み、その後家族に車で迎えに来てもらった。ぐったりと疲れた身体で家に着き、一番にテレビをつけた。瞬間、まるで有り得ない光景が広がった。家が、車が、建物が、いや「街」そのものが、大量の水で押し流されていた。私は暫く呆然とその光景を眺めていた。自分が今いる家となんら変わらない、むしろそれよりも大きな建物が、まるでただの木片のように濁流に飲み込まれている。確かに現実である筈なのに、頭は理解出来ない。恐ろしさよりもまず、不可解だった。アナウンサーの声が遠く聴こえる。海岸に百単位の人が流れ着いている―思わず耳を塞ぎたくなるような内容だった。その日は目を閉じると、テレビで見た濁流が瞼の裏に浮かんでくるようで、なかなか寝付けなかった。ただ、恐ろしかった。

 それからの日々はとても長く感じられた。どんどん拡大する被害や、不安感が更に煽られる一因となった原子力発電所問題。インターネットで拡散されるデマや噂。直接的に被害に合ったわけでもないのに、時間の流れがひどく遅く感じられた。そう、私は、直接被害を受けた訳ではないのだ。身内や親戚の類がいた訳でも、友人や知り合いがいた訳でもなかった。当初、すべてに怯えていた私は、所詮無関係なのだと思っていた。何が起ころうと不安で、恐怖を感じるが、自分に降りかかってきてはいない。そう考えることによって、無意識化に現実から逃避しようとしていた。関係無い、だから自分は大丈夫―そうして、根拠の無い未来を信じようとしていた。ひどく愚かで、自分本位だった。

 「その日」から一か月以上過ぎた頃、なんとなく見ていたNHKで震災ドキュメンタリーを放送していた。そのドキュメンタリーは、震災で被害を受けた「すべて」を特集していた。それは人や家屋はもちろん、自然や他の生物、一か月以上経ってもまだまだ不自由を強いられる人々など、様々な問題について提起していた。学校に通えない子供達、住んでいる場所が原発付近である為、家に荷物すら易々とは取りに行けない人。大切な人の、行方が未だ分からない人。被害を受けたすべての人や生き物が、悲鳴を上げ続けていた。私はその映像を見た時、自分の考え方の甘さを恥じた。私が想像もつかない所で苦しむ人がいて、そしてそれはまだまだ解放されない苦しみだったのだ。生半可な時間の経過などでは誰も救われない。それなのに私は、自分には関係が無いと言い張り、時間が流れて恐怖や不安が薄まるのをただ待っていただけだったのだ。テレビ番組越しではあったが、私は初めて正面から「現実に苦しむ人」を見た。それは過酷で悲痛で、私はまた自分を恥じた。そしてその足で、ショッピングセンターの募金コーナーへと向かった。一番シンプルで、かつ力になるものだと考えたからだった。

 私はあの震災で、何か特別なことをした訳ではない。現地にボランティアに行った訳でもない。被害を受けてもいない。身近な人が被害にあってもいない。けれど、だからといって何も関係ないと、何も考える必要が無いと、全ての現実から目を背けていい筈が無かった。確かに考えない方が楽であるし、もしかしたらこれすらも自分の気持ちを満足させる為の所謂「エゴイズム」からきている感情なのかもしれない。それでも、私はどんな形であれ、私が見た「現実」を真正面に受け止めたいと思った。私には想像もつかない、被害を受けた人にしかわからない痛みがあって、それはまだ無くならないのなら、せめて私は私なりに、自分に出来ること、そして自分が考えなければならないことを見つけたかった。ドキュメンタリーを見た日、私は現実から目を背けず、確かに何かを考え、そして行動したのだから。

 あの震災から半年以上が経つ。近頃ではテレビや新聞の報道も当初よりは少なくなり、情報を得る機会も減りつつある。けれどそれは問題が解消されつつある訳では、もちろんない。今も被害を受けた人達は苦しみ、それはいつ終わるか分からないのだ。そのことは被害を受けていない私が唯一言える、「現実」であると思う。だから私はせめて、考えて行動したい。それが恐れ多くもいつか誰かに応えられたら、そう思って、行動する。あの日見た濁流はまだ瞼の裏に残っている。恐怖もまだ少しある。けれどそれ以上に、自分を、変えていきたいとそう、思っている。

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