優秀賞

「スーツを買った日のように」

法学部 法律学科 1年次生 東 亜美

審査員講評

 このエッセイの中では2つの買い物が対比されている。1つは震災当日に買ったスーツであり、もう1つは災害後しばらくして買った寄付金つきの切手である。スーツは就職活動や卒業後の社会生活での着用までを念頭においたものであろうか。切手に比べれば金額も著者の今後の生活との関わりも明らかに大きい。だが著者は、少額の寄付金によって、被災地とつながり、被災者を支援していることを実感している。そしてその切手が販売されなくなるまで、ずっと購入し続けようと決意する。著者は切手によって、今までよりはるかに広い社会とのつながりや、人間と自然の関係を意識する。震災の当日とその後のできごととともに、著者の心情の変化が短めの文章で積み重ねられている。読みやすく心地よいエッセイである。

作品内容

「スーツを買った日のように」東 亜美

 私は、新しいスーツを買うために、近くの専門店へ向かっていた。
 親が運転する車の中でラジオを聴いていると、いつものような地震速報が入ってきた。私はそれをいつものように聞き流し、なんの変哲もない車窓をぼうっと眺めていた。しかし親は、いつものような地震速報に対して、少しばかり興奮したように「でかいな」とつぶやいていた。
 その後、お目当てのスーツを買ってもらい、私は地震速報の事などすっかり忘れて帰路についた。リビングに入って何気なくテレビをつける。するとそこは、先ほど私が聞き流した地震についてのニュースであふれかえっていた。
 次の日からは、テレビを見ると、今までの比ではないくらいの量の、地震に関連する報道をされるようになった。また、新聞も多くのページを使って、次々と露わになる悲惨な状況を伝えていた。このことは、地震の実感が全くなかった私をも、今までの地震とは格が違っているのだということをすぐに理解させ得た。
 スーツを買って幾日かたった日のことである。私はこの日もニュースを見ていた。その日はヘリコプターから撮影された津波の映像が何度も流されていた。画面の端のほうに、逃げ場を失い、車ごと波に飲み込まれていく人を見つけた。その映像は、できることならば見たくなかったと思うほどにリアルで、私の胸の奥の方に深く突き刺さることとなった。
 彼らが波にのまれた時、私は何をしていただろうか。同じ日本で大災害が起こっているというのに、ほとんど関心を寄せることのなかった自身を恥じた。

 私は生まれも育ちも関西で、関東との直接的なかかわりはあまりない。しかし、そんな私にも一人だけ関東に友達がいる。震災から一週間ほど経ってからだっただろうか、その友達から突然電話がかかってきた。彼女は震源地から離れたところに住んでいるので、怪我もなく無事であった。しかし大きな余震が続く中で、彼女の心はとても不安定な状態におかれていた。そんな彼女に対して、私はどんな言葉をかけていいのか全くわからず、ただただ話を聞くだけで終わってしまった。
 日を追うごとに二次災害が二次災害を生み、次々と問題が増えていく。それに対して私はあまりにも無力だった。画面を通して見るニュースも、震災を境にして毎日見るようになった新聞も、見ているだけでは全く何の力にもなれないのだ。

 私は比較的よく手紙を書くので、ある日、切手を買い足すために郵便局へ行った。その時に、寄付金付の切手があることを知り、私はそれを使用して、被災地の支援をすることにした。寄付金付といっても決して大金ではない。しかし、その時に初めて、ほんの少しでも力になれたという実感がわいた。もちろんこの切手が販売されなくなるまで、ずっと使い続けるつもりだ。
 私の知り合いで体力のある人は、実際に被災地に出向きボランティア活動をしていた。裁縫が得意な人は、ランドセルがなくなった子どもたちのために勉強道具などを入れる鞄を作っていた。エンターテイメント能力がある人たちはチャリティーコンサートなどを開催し、そこで集めたお金を被災地に送った。これ以外にも献血など、支援には多種多様な形がある。

 震災などの自然災害で受けた被害から復興するには、多くの時間とお金、そして何よりも「国民が一丸となって、力を合わせて復興するのだ」という、団結しようとする強い意識が必要不可欠である。
 昔から言われているように、人間は少ない人数では大きな力を発揮することはできない。しかし大人数で力を合わせると、とても大きな力になる。だからこそ、「放っておいても誰かが何とかしてくれるだろう」と人任せでいるだけでは、いつまでたっても復興することなどはできない。私がスーツを買った日のように、一人一人が無関心のままでいてはならないのだ。
 今年の夏に紀伊半島を襲った台風でも同じことが言えるのではないだろうか。対人関係が希薄になってきている現代社会で、今こそ国民が一つになれるチャンスなのではないかと感じている。
 「自然」と「人間」は昔から切っても切れない関係だ。もしかすると「人間」のことを一番よく知っているのは、「人間」自身ではなく、「自然」なのではないだろうか。最近頻発している異常気象による自然災害は、自然から人間への「みんなで団結して乗り越えろ」という一つの課題なのかもしれない。これだから本当に自然をあなどることはできないのだ。

 最後にもう一つ。この文章が、ある種の支援になれば幸いだ。これが、実際に被災者のもとへ届いてほしいと思っている訳ではない。この文章を読んだ人が、一人の人間の無力さ・無関心さを、人は何らかの形で必ず力になることができるということを、感じてもらうことができれば嬉しい。また、「ちょっとのことでいいなら、自分にもできることを探してみようかな」と感じてもらえるのが、一番良い結果だと思っている。
 その、「ちょっと」の支援の積み重ねは、必ず明日の復興へとつながっていくのだから。

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