サギタリウス賞

「無力感に抗うこと」

文化学部 国際文化学科 4年次生 西条 維都子

審査員講評

 このエッセイは「無力感」をキーワードとしている。それはある意味、被害を被った地域の外に住んでいる人々に共通していた感情であるといってもよい。筆者は、ドラマ「仁〜JIN〜」の一幕をまず冒頭に持ってきて、この感情への向き合い方を問いかけている。非常に巧みな書き出しである。

 それを起点として、このエッセイでは筆者の感情の移りゆきが語られていくが、その文体と表現は簡明で、筆者の思いがわだかまりなく心に響いてくる。巨大な自然の力に対して、まさに人は無力であった。そうした無力感と共に、それがもたらした惨状に対しても、一瞬「自分に何が出来るのか」という思いにとらわれた人は多かったはずである。筆者もその一人であった。しかし、筆者は被災地に行き、ボランティアに従事する中で、被災地の人々の「絶対に復興する」という強い意識を感じ取り、逆に第三者として未来に悲観している自分が叱咤されたような気がしたという。そこから、筆者は「無力感に抗うこと」の意味と必要性を自覚することになる。そうした気持ちの変化を、このエッセイは実に素直に描写しており、それが読む者に好感がもたらしてくる。また、最後の部分で、筆者は東北がかつての美しさを蘇らせることを楽しみにしつつ、そのために自分が出来ることは何なのかを、「無力感に抗いながら考え続けて行きたいと思う」と結んでいるが、それによって、冒頭の「仁〜JIN〜」の一幕が、直接に語られないながらも、再び思い起こさせられる。筆者がそこまで意図したのかどうか、それはともかく、結果として巧みな構成となっていることは、このエッセイが評価出来るひとつの理由でもある。

作品内容

「無力感に抗うこと」橋爪 明美

 以前、TBS系で「仁〜JIN〜」という大ヒットドラマがあったのは記憶に新しいが、そのドラマの中で、無力感に苛まれる主人公の医師に対してかけられた次の言葉が印象に残っている。「死んでしまった人に対して、私たちができる唯一のことは、彼らがまた生きたいと思える国を創る事ではないのか」

 2011年3月11日、医師でなくとも、「無力感」を抱いた日本人は多いのではないかと思う。私もその一人だった。私は母と居間でテレビを見ていて、テレビ越しに大地震が起こった事を知った。「何か自分にできることはないのか」。こうして私がテレビを眺めてただ悲しんでいる間にも死者数、行方不明者数はどんどん増えていく。被害の全貌が明らかになるにつれて、自分の無力さを痛いほど思い知らされ歯がゆく思った。しかし、阪神大震災の教訓を生かし、無闇に救援物資を送ることや、一般市民のボランティアが控えられていた震災直後、私にできることはただ祈ることと、そして募金することぐらいだった。「私たちが今できることをすること」が今は必要で大事なことだとは知っていたが、それでも湧き出てくる「無力感」を拭うことはできなかった。

 しかし、震災から日が経つにつれて、私は「東北の人、大変やなあ」と、まるで他人事のようにニュースを眺めるようになっていた。「私なんかが出来ることなんてないし、専門家に任せよう」とさえ思い始めていた。関西に住む私にとって、日々の生活は震災前と変わるところは特になく、毎日がただ今までと同じように忙しく過ぎて行った。そんなある日、友人伝手で、震災ボランティアを募集している団体のことを知った。初めは、上記のような心情でいたため、ボランティアに参加する事をためらっていた。しかし、東日本大震災は、犠牲になった人々の多さはもちろんのこと、原子力発電所の問題を始めとする日本経済全体に及ぶ大きな打撃があり、決して福島や東北だけの問題ではなく、日本に住むすべての人に関わってくる問題だ。だから私は、震災を他人目線で眺める事なく、自分自身の問題としてもっと意識しなければならないと思い、被災地を実際に訪れる事で、自分自身の目で、肌で、何かを感じる必要があると思った。また、震災直後、無力感に苛まされていた時に「一般のボランティア募集が始まったら絶対に行こう」と自分にしていた約束を思い出した。そして9月、私は被災地へのボランティアに参加する事にした。しかし、今から思えば、私の「他人目線で眺めない」という思いは、被災地の惨状を自分の目で見てショックを受け、被災者の方々と悲しい気持ちに浸りたかっただけのような気がする。

 しかし、被災地へのボランティアは、そんな私の期待を大きく裏切ることになった。なぜなら、私がボランティアに参加して一番感じたのは、今も続く人々の苦しみや悲しみ、大震災の恐怖ではなく、何よりも人々の生きる力だったからだ。私が訪れたのは、宮城県石巻市だった。石巻市は津波の被害を大きく受けた地域の一つで、三千人以上の死者数が出た場所だ。私もその事をニュース等で知っていたので、ボランティアに行く前は、復興がなかなか進まず、多くの住民は今も悲しい気持ちで毎日過ごしているのだろうと勝手に想像していた。しかし、私はそこで、復興の進まない被災地の様子や、収束の目途がつかない原発事故のニュースをテレビで見ているときに感じるどうしようもない絶望感とは対照的な、強い希望を感じた。私は震災から半年後に訪れていたので、一見なんの変哲もない普通の家に見えても、そこには泥だらけになった家をきれいに掃除し、身内を失った悲しみに耐える家族が暮らしていたのかもしれない。また実際に、商店街では未だに信号機が動かず手旗信号だったり、店のシャッターがゆがんだままだったりしていて、震災の傷跡が残るところも多く見受けられた。海岸沿いは、津波によって壊れた住宅街が整理されたことによって、遠くの方に山積みになっている瓦礫と自動車以外はほとんど何もない状況だった。そのただ広い土地が広がっている様子は、以前そこに住宅街が立ち並んでいたとは信じがたいほどだった。しかし、そんな状況を目にしても、私は石巻市の未来に絶望を感じなかった。それはなぜかと言うと、いたる所で目にする「頑張ろう、石巻」というのぼりや、壊れたシャッターの奥で営業を再開したお店など、街のあちらこちらから「絶対に復興する!」という意志を強く感じたからだ。私たちは、今、確かに困難に直面している。失った尊い命も計り知れない。そして希望を持てと言われても、実際に家族を亡くした人や、住む場所、職を亡くした人にとっては難しいことだろうと思う。しかし、幸いにも私には震災によって亡くした知人もいなかったし、当たり前の生活を、震災前となんら変わることなく、当たり前に送ることが出来ている。そんな私が希望を持たないで、未来を悲観してどうするのだと、街のあちらこちらから、逆に叱咤されているような気がしたのだ。

 今回の大震災のような、抗えない大きな力が私たちの行く手を遮った時、それをどうとらえ、どう対処するかは人によって違うと思う。しかし私たちは同じ日本に住む日本人として、例え日本のどこに住んでいようとも、一人一人が復興に対しての意識を持ち続けなければいけないだろう。しかし、復興に対しての意識というのは、決して悲しい気持ちに浸る事でも、自粛や不謹慎を叫ぶことでもないということを今は強く感じている。私の考える復興への意識というのは、無力感に決して屈さず、抗い続ける事だ。そして無力感に抗うということは、「自分にできることはない」と諦めるのではなく、「自分にもできることがある」と模索し続ける事だ。確かに私は、人、一人一人の力は本当に無力で、自然の力には到底敵わないと言う事を今回の大震災で再認識させられた。しかし同時に、被災地のボランティアに参加して人々の生きる力を感じ、一人一人の「人」が集まった「私たち」の力は私が想像している以上にはるかに力強いものだと言う事も、また改めて感じる事ができたのだ。つまり矛盾するようだが、「私」自身は無力でも、「私たち」は、決して無力な存在ではないのだ。

 私が東北へ行ったのは、実は今回のボランティアが初めてだったのだが、本当に美しい場所だった。リアス式海岸からは、太陽に照らされて輝く、今は穏やかな海が広がり、もしボランティアとして訪れていなかったら、もし震災による被害を受けていなかったら、その美しい景色に息を飲んだ事だろう。今回のボランティアで私がした事は、配給の手伝いだったり、津波で使えなくなった施設の後片付けだったり、本当に小さな事だが、来年、再来年、また必ず同じ場所を訪れて、私が見た場所や触った場所が、美しく蘇っている姿を見られることを今は楽しみにしている。そしてそのために、私なりに出来る事をこれからも無力感に抗いながら考え続けて行きたいと思う。

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