優秀賞

「私の大切な体」

文化学部 国際文化学科 4年次生 渡邊 幸子(わたなべ さちこ)

審査員講評

 人間は誰しも何らかの不平不満を持って毎日の生活をしているものだ。おそらく、あらゆるすべてのものに十分に満足しながら生活している人間は一人としていないであろう。そして、その不平不満があまりにもかけ離れた非常に耐え難いと思われるものであるならば、その苦痛たるや、一般には理解しがたいものであろう。しかし、筆者はその自己のマイナス面に耐えるなかで、自己の強靭な精神力の卓立を可能にしたと思われる。まさに、この超越こそ他の誰にも真似のできない筆者の大きな飛躍、成長である。「マイナス思考のプラス思考」にたどり着き、且つそれを認識した筆者は強い。これこそ大学時代の大きな成果として、今後の筆者の人生を飛躍させる原動力となることが期待される。最後の部分で、筆者を暖かい慈愛で見守ってきた両親への感謝の言葉は新鮮だ。

作品内容

「私の大切な体」渡邊 幸子

 私は自分が大嫌いです。昔から自分の容姿が大嫌いで、頭の先から足の指先までコンプレックスを抱え続けてきた。その原因は一つではないけれど、大きなものは「病気」である。保育園の年長の時に“小児関節リウマチ”を発症した。そして小学校に入って間も無く、違う病気が原因で足の手術をした。この二つの出来事から私は大きく変わった。というよりも、そこから“今の私”が生まれたように思う。

 幼い私にとって、当然病気の痛みもその治療もとても辛いものでした。しかし何よりも苦しかったことは身体の変形でした。関節が固まってしまうことで、外反母趾になり手足の関節の可動域も制限されていった。更に、手術をしたことで左足には大きな3つの傷跡が残った。小学校では、他の子達と少し違う体や動き、短い体操着から覗く何とも不気味な傷跡を、子供の素直さ故に指摘されることがとても辛かった。肉体的な痛みならもう慣れていたし、その瞬間ぐっと堪えるか「うわー!」と声をあげて泣いてしまえばいい。でも心の痛みはちっとも慣れることができなかった。一番苦しいのはその瞬間泣くことができないことで、ジワッとにじむ涙をこらえ、悲しさや寂しさ、悔しさをゴクリと飲み込んで笑顔を作っていた。

 中学校になるとそれ以外の悩みもぽつぽつと現れた。思春期なら誰でも一つや二つ体の悩みはあるものだけれど、私にはまるで「ぬり絵」の白い部分が塗り固められていくかの様に思えて、どんどん黒く塗りつぶされていく体が嫌で仕方がなかった。

 ところが高校生になり、病気を発症して以来ひたすらに自分の体を否定し続けてきた私は、少し変化した。高校生ともなると、自分の“見た目”にもよりこだわるようになり、また、考え方や考えることもより複雑になった。それ故「私の体は他の人より劣っている所ばっかりや!」と全身がコンプレックスとなり、周りの人に見られているような気がして通学の電車ではずっとうつむいていた時もあった。全身が真っ黒に塗りつぶされ、如何にそれを隠して影にしてしまうかに必死になっていた。けれども、それでも私は自分を見捨てたくはなかった。私は「病気」という自分が抱えるものを悲観しながら、それを自分の「宝物」だとも思い続けていた。そう思えたのは母譲りの明るい性格と、きっと誰よりも病気を憎んでいたであろう両親が、その病気から得る良い面を一生懸命伝えてくれたお陰だと思う。その「宝物」が、たくさんの大切なことを私に教えてくれていたことに改めて気づいた。手があること、物を持てること、足があること、歩けること。当たり前の様にあるものが本当は有難くて、日常の中で何気ない行動を当たり前にできることもとても喜ばしいことであるということ。また、たくさんの人の優しさも知ることが出来た。そしてその中でも私が一番誇りに思えたことは“心”である。当たり前のことを有難く思える心ももちろん、特に自分が色々な感情を経験してきた分、相手の気持ちを考えたり察したり理解してあげられる心を、少しでも持つことができたことが大きな私の「宝」である。もっと前から気づいてはいたことを「私の宝物なんや」と、胸に掲げることができた。真っ黒な体だけれど、真ん中に一つ色を塗ることができた。それは私の大きな成長だった。この頃から私は自分の考え方を「マイナス思考のプラス思考」と表わすようになった。「嫌なことがあってもきっとその隣には良いことがあるはず」、そして「嫌なことがあるからこそ良いことが倍の喜びになる」という考えを持ち、それを信じ、前に進んでいく力を生み出していた。

 そして、そうして生み出した力は、大学生活の中で新しい私を見つける助けとなった。私は昔から音楽が大好きで、悩んでいる時も音楽にたくさん助けられた。その音楽に自ら触れたくて、大学では思い切って軽音楽系クラブに入部した。そして憧れていたベースにチャレンジすることとなり練習を始めたけれど、すぐに左手首の不自由が弦を押さえる際に不便なことに気がついた。けれども、ずっとこの体と生きてきた私はそんなことは予想できていたし、むしろ私は落ち込むどころか燃え上がった。もがいてきた中で、「自分なりのやり方で練習し続ければ上手くなることは出来るんや」という確信を「宝物」から学んでいたし、何よりもし周りが驚く程上手くなることができれば、そこには人一倍の喜びがあるのだろうと、私は希望でいっぱいだった。また、同じように新しいチャレンジとしてアルバイトも始めた。自分の不自由さによって働いている人に迷惑をかけることが不安で、アルバイトをする事に抵抗があったけれど、一人暮らしを始めたこともあり思い切って飛び込んだ。よりによって体力の要る居酒屋という職場に飛び込んでしまったが、こちらも「負けるもんか」と食らいついた。もちろん、出来ないことを無理にして迷惑をかけてはいけないので、「出来ません、お願いします。」と人に頼める勇気も学びつつ、必死で体を動かした。

 アルバイトはお店が閉店してしまったけれど、最後まで一年半やり遂げることが出来た。これには母も「最初はどうなるかと思ったけどなぁ!」と驚いてくれた。ベースでは、クラブを引退する最後に、目指していたライブの舞台についに立つことができた。両方ともとても誇りに思えるし、一生忘れない思い出になった。病気がきっかけで自分自身に自信が持てず、なかなか大きく足を踏み出す勇気が無かった私が、確実に成長して、大学で大きな一歩を踏み出し新しい自分を見つけ出した様に思った。

 今年の春、就職活動で自己理解をする為に母に「私ってどんな性格?」と聞いてみた。そうすると「あんたは我慢強い子やな。小さい頃から病気で制限されたり我慢したりすることが普通やったから、我慢強い性格になったんやな。だからこそ人の気持ちも分かってあげられる子やと思うで。」と母が言ってくれた。自分なりに今までのことを振り返っても、特に大学での経験を思うと、一緒に病気と戦ってきてくれた母が言ったことは確かなことだと感じた。6歳の時に病気が発症して15年が経ち、ピシッとスーツを着て就職活動をしていた21歳の私は、その15年で得たものを「私の強みです」とはっきりと言える様になっていた。今思うと15年の間常に私は自分と向かい合ってきた。一人の部屋で、時には自分で自分を殴ったり、時には自分で自分を撫でたりもした。私が大嫌いなのは私であり、でも私を一番理解しているのは私である。そんな自分と向かい合うことで、自分を認めることもできたし、成長することもできたのだなと今改めて思う。今もやはり自分の体は真っ黒に塗りつぶしたままで、悩みも日々尽きないけれど、これからもまた成長していけるように、就職してからの新しい生活でももっと自分らしく生きていけるように、「私の大切なものは私自身だ」という言葉を綴っておこうと思う。そして、「そんな風に生まれたことを後悔なんて一切していないし、むしろ誇らしいよ。」と、両親への言葉として最後に添えておきたいと思う。

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