優秀賞

「目に見えないけれど大切なもの」

経営学部 経営学科 3年次生 平岡 佳珠(ひらおか よしみ)

審査員講評

 何を書くか、何を読み手に伝えたいのか、それが最も明確だったのがこの作品である。「エッセイ」を書くのは実は相当に難しい。受賞作は文章も短く、体言止めも効果的。段落の冒頭部分だけ見ても、書き手のうまさがわかる。「母はいつも「ありがとう。」と言ってくれた。その一言で私は十分だった。」「大学2回生の冬。再び父に病魔が襲いかかる。」「岡山の家を出て2年半。実家に帰るたび小さくなって見える父と母。」「岡山の空を見上げる。京都では決して見ることの出来ない空一面に散りばめられた沢山の星を眺めていると、涙がこぼれてきた。」…そして最終段落、「世の中には目にはみえないけれど大切なものが沢山ある。大切なものほど見えにくい。」は、至極あたり前の、いわば陳腐な表現。だが、計算された流れの中で最終段落の冒頭に配置されるや、俄然、金言としての輝きを放ってくる。そこへたどり着くまで、読者を導く筆力と構成力がすばらしい。綿密な設計図は、一級建築士のお父さん譲りか。「恥ずかしがり屋な私は、そっと父の机に手紙を置いた。病院から帰り、手紙を見た父は泣いていたという。」の如く、作者は単文の連接から大伽藍を組み上げる術を知悉する。文章は書き出しが命だ。長明の『方丈記』や芭蕉の『奥の細道』を見よ。受賞作は、冒頭部分にも細心の注意を払っている。幼少期の「たった1日の記憶」を、作者は冒頭にもってきた。ぜひ、原文で翫味されたし。

作品内容

「目に見えないけれど大切なもの」平岡 佳珠

 私の母は教師、父は一級建築士。両親共働き。幼少期の頃から私含め兄弟3人は父、母の後姿を見て育ってきた。参観日も運動会も学校行事は両親ではなく、いつも祖父母。自分は大切にされていないのかと思う幼心。休日も仕事に向かう父と母、家で兄弟3人、宿題をしたり遊んだりしながら両親の帰りを待っていた記憶が強い。今でも鮮明覚えている記憶がある。私は生後10ヶ月から保育所に預けられていた。2歳の私と4歳の兄。次々とお迎えが来て、友達や他の園児達は親と仲良く帰っていき、保育所に残っているのは私たち兄妹2人だけ。私と兄はホールで夕日が沈む中、遊具で遊び2人母親を待っていた。幼少期の記憶の中で一番はっきりと覚えているのが、このたった1日の記憶である。今思えば、自分が思うよりあの頃の私は寂しさを抱えていたのかもしれない。
 その頃から私と両親の間には見えない「距離」があった。しかし、私の両親は沢山愛情を注いでくれた。その愛情に気づくことができたのはごく最近のことである。

 中学に入っても変わらず私の周りには同じ時間が流れていた。高校受験の前日、父が過労で倒れた。父がいなくなってしまうのではないかと、不安に襲われ、頭の中は幼い頃の父との思い出が駆け巡った。あの時母は「この子達は私が守っていく。」と覚悟を決めたと言う。父が倒れた日、食卓には机いっぱいに広がった父の仕事道具があった。一人で頑張りすぎだよ、と胸がいっぱいになった。どこのだれよりも自分の父親がずっとずっと立派だと、初めて父のありがたさを感じた日だった。あまり父親と関わってこなかったせいか、私は父に対してどう接すればいいのかわからなくなっていた。思春期のせいもあり、父と交わす言葉も以前より減っていた。たった一言でも、「無理はしないでね。」、「お疲れ様。」の一言でも、毎日声をかければよかったととても後悔した。
病院に運ばれる父の後を追いかけたい気持ちでいっぱいだったが、母に「心配しなくていいから自分の事だけを考えなさい。」と家に兄弟3人残された。母がそう言ったのも、私は翌日試験を控えていたからだ。恥ずかしがり屋な私は、そっと父の机に手紙を置いた。病院から帰り、手紙を見た父は泣いていたという。父が泣く姿なんていとこの結婚式でしか見たことがなかったので、想像もできなかった。父が泣いた日、私は恥ずかしくて一度も父と顔を合わせることができなかった。

 大学受験時は帰りの遅い母親に代わり、家族の食事を作ってから勉強机に向かっていた。
片道2時間の通学。疲れていても自分より、もっと疲れている父やお腹を空かしている弟の事を考えると家事をすることは「苦」ではなかった。幼い頃から家事などは兄弟で分担していたので、それが当たり前になっていた。いつも食卓につくのは20時過ぎ。家に帰り、食事が並んでいるという日は私の家ではごくまれであった。しかし、他の家のように帰宅すると食卓に料理が並び、「おかえり」と迎えられることを一度も羨ましいとは思ったことはない。それは両親の姿を幼い頃から見てきたので、自分の中に「なぜ私の家は?」という問いに対して、「答え」が出ていたからだ。深夜、勉強を終え明かりのついた部屋で転寝をしている母に、毛布をかけ部屋の明かりを消すのが日課であった。「毎日お疲れ様。」心の中で静かに母にかけていた言葉。
母はいつも「ありがとう。」と言ってくれた。その一言で私は十分だった。見返りなんて求めていなかった。両親が少しでも楽でいられるように、負担が減るように、家庭を気にせず仕事に打ち込めるように、ただその気持ちで私は動いていたのだと思う。
受験の前日、いつものように台所につき家族の食事を作ろうとしていた時、珍しく母が早く帰ってきた。「ごめんね。」と一言。「すぐご飯つくるから。」母は服も着替えずエプロンを付け私の横に立った。「他人の子供を見れても、わが子を見てやれないのが辛い。ごめんね。」と涙を流していた。その時初めて、母との「距離」が縮まった。「私の母親はやっぱりこの人しかいない。」と思った瞬間であった。その反面、自分のせいで辛い思いをさせてしまっていたのかと正直へこんだ。確かに幼少期はかまってもらえず寂しい時期もあった。もっと話を聞いてほしい時期もあった。しかし、職業が職業なので大変な事はわかっていたし、しょうがないと割り切ってからは何も思わないようになっていた。むしろ母を「母親」としてではなく「一人の女性」としてみていたので仕事も家庭もこなしてしまう母を尊敬していたくらいだ。

 大学2回生の冬。再び父に病が襲い掛かる。母からその話を電話で聞かされた時、心が空っぽになった。電話をきった後、自分には泣くことしかできなかった。泣くことで抑えることのできない辛い気持ちを流すしかできなかった。「何で?何でお父さんばっかり?」。毎日、何も考えていなくても自然に流れる涙。しかし、決めていた事が一つあった。“お父さんとお母さんの前では絶対泣かない”一番辛いのは父だとわかっていたから。支える側が泣いているようではいけないと胸に誓った。後日、再び母からの電話。いけないとわかっていながらも、こらえていたものが溢れ出た。電話の向こうで母は言った。「お母さんはひとつも心配していないよ。なんとかなる。お父さんはお母さんが守るから。あなたは自分が今一番何をしなければいけないか考えて、自分の事だけ考えてればいいの。もう、本当に泣き虫ね。」と、顔は見えないものの電話の向こうの母は微笑んでいた。たくましかった。何回目だろう。この言葉を言われたのは。昔と変わっていない自分に気づかされた。20歳を越して大人としての自覚は持つことができても、やはり親の前では子供である。この2人の両親の子供で本当によかったと心から思う。

 岡山の家を出て2年半。実家に帰るたび小さくなって見える父と母。一番近くにいた存在が一番遠くの存在に感じる瞬間。彼と彼女の「変化」に気づいた時、まぶたが熱くなる。あと何年一緒に居られるのだろう。悲観的な意味ではない。離れて気づく、自分にとって大切な存在。20/365日。1年間で家族と過ごせる時間。当たり前が貴重な日に変わっていく。泣き虫になったな・・・。岡山に帰り、祖父母と話をしているだけでも泣きそうになる。いつも乗る汽車の車窓から外の景色を見ているだけで泣きそうになる。実家に帰っても2年半と変わらない時間がそこには流れている。
無口で不器用な父から時折入るメール。「元気にしているか?体には気をつけろよ。」
いつも私を信じて応援してくれる母からの手紙。15通。
進学するため京都へ引っ越し、岡山を離れて気づけば2年半。京都と岡山。日本中どこでも同じ空で繋がっているのに、今自分がいる場所と大好きな人やモノや自然がある岡山とはやっぱりどこかが違う。温かいものがそこにはある。誰にも、何にも代わりのできないものがそこには存在する。5年ぶりに会った昔の恩師。彼女は私を強く抱きしめ、「綺麗になって。元気そうで本当に嬉しい。」と泣いていた。自分のために泣いてくれる人がいる。「頑張れ。」と応援してくれる人がいる。

 岡山の空を見上げる。京都では決して見ることの出来ない空一面に散りばめられた沢山の星を眺めていると、涙がこぼれてきた。素直で飾らない自分がそこにいた。家族、自分、将来、いろんな不安を解決してくれそうな気がした。今までがそうだったから。心がギザギザになった時や一人になりたい時、いつも岡山の空は優しく私を包みこんでくれていた。
岡山には戻らないと決めた2年半前。自分のやりたいことは岡山にはないと思っていた。違う環境に飛び込む事にためらいはなかった。だから私は今、京都にいる。同じ環境に留まっていると見えることも見えなくなってくる。それが嫌で歯をくいしばって親に伝えた自分の想い。京都に引っ越す時、母に言われた言葉。「家には戻ってきたらいけん。岡山には帰ってきちゃいけん。」母がなぜそう言ったのか理解できる。私が何を思って、何を考えているか彼女には全てわかっているから。母は言う。「何年あなたを見てきたと思っているの」と。「一人の女性」から「母親」に戻る瞬間。
世の中には目にはみえないけれど大切なものが沢山ある。大切なものほど見えにくい。大切なものに出会えて、気づくことができた自分は幸せ者だと思う。故郷岡山にいる家族や友人を含め、岡山にある全ての自然やモノが私にとって大切なもの。そこが今の私の原点でもあり、これからの私にとっての出発点でもあるから。21年間の想いが詰まった「大切なもの」と過ごした年月は私の一生の宝物。

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