入賞

「恩師への感謝」

経営学部経営学科3年次 石倉 伸起(いしくら のぶき)

審査員講評

 中学教師希望の著者が、そのきっかけとなった3人の教師を振り返りながら自分の目指す教師像を開示している。何気ない会話の中から母親の教師としての顔を再発見したこと、高校卒業式のとき野球部顧問の戸川先生がくれた言葉から自分の目指すべき理想的教師に目覚めたこと、そして山村部の生涯教育に教師人生を投げ打った祖父の死をきっかけに教師の道を選ぶ決意が固まったこと、が淡々と語られている。そしてこの3人の教師との出会いがなければ、教師を目指す現在の自分は絶対にないと断言している。著者が目指すのは、常に生徒を一番に考えて、いつまでも熱意を表面に出す教師である。3人の教師から大きな影響を受けたことを素直に受入れながらも、他人の物まねでないオリジナルな教師像を目指す著者に、「ぜひ夢を実現してほしい」と心から応援したい。そして教師になったときに、これまで出会った3人の教師に「ありがとう」という感謝の気持ちを表したいという夢を是非実現してほしいと願っている。

作品内容

「恩師への感謝」 石倉 伸起

 最近、私は毎日あることで悩んでいます。それは、就職活動と夢についてです。大学3回生秋の時期になると、他人は「どこに就職しようか、就職できるのか。」というようなことで悩んでしまうと思います。しかし、私の悩みはそのようなこととは違いまして、就職活動をせずに進みたい道にしぼるという覚悟に対しての悩みです。最近になって少し迷いがあります。私が進みたい道を具体的に言うと、私は教師を目指しています。
 上記のように、就職活動をせずに教員採用試験の一本にしぼろうとしている経緯は私自身の人生に大いに影響されています。それは私の20年という人生の中で、私が教師を目指すきっかけを与えてくれた教師が三人いたからです。
 その三人のうちの一人が私の母です。母は和歌山県の小学校で教師をしていまして、私が幼少の頃から思いやりとやさしさをもって育ててもらいました。母が勤めていた小学校が私の自宅に近いこともあり、母が担任だった生徒と友達になることがたびたびありました。教師として母をどのような感じと聞くと、「石倉先生はすごくやさしくて怒った姿を見たことがない。うちの小学校で一番いい先生だった。」と言われて、私が知らない母の姿を知ることができて驚いて、私は母を誇らしく思えました。また、私は母から小学校での出来事や教師をやっていて良かったことなどをよく耳にしていました。例えば下記のようなことを母が言っていました。

 「どんどん育っていく児童を見たり触れ合ったりすると楽しいし、児童が卒業して大きくなってがんばっている姿を見たりするとうれしいし、やっぱり児童と出会いがあるから今まで教師が続けられた。」

 このような話を聞いたりして私は育ってきましたが、私は幼少の頃には教師に興味があるだけで、将来の職業として就きたいという強い気持ちはまだありませんでした。
 そして私が中学生となって、中学校で出会った教師が戸川先生です。戸川先生は生徒には英語を教えていまして、また部活動では野球部の監督を受け持っていました。私は幼少の頃から野球をやっていて、中学校でも野球がやりたいと気持ちがあったので野球部に入部しました。私は戸川先生と授業・部活動と他人よりも接点が多かったので、お互い話したり悩みを聞いてもらったりしてすごく助けてもらいました。そして、戸川先生と出会って一番印象に残った言葉が卒業式の時に言われた言葉で、今でも私の心に残っています。  

 「のぶきはこの3年間で一番話して理解できた生徒だった。野球部でも二中野球部史上、最高のトップバッターでした。いつも笑顔で、やさしい言葉使いがのぶきの宝物だ。高校でもがんばれよ。」  

 この言葉を聞いて、私もいつまでも生徒に対して印象に残る言葉が言える教師になりたいと思いました。戸川先生の教師像は、生徒一人一人に対してひとしく接していて、どんなに非行にはしっている生徒に対しても、見捨てずに真正面から向き合う姿勢や授業・部活動などに熱意が感じられて、最近ではあまり耳にしなくなった「熱血教師」がぴったりな教師であり、私も戸川先生のような教師になりたいと、この頃から教師への気持ちが強くなり始めました。
 高校生になると、野球部に所属していて練習のつらい日々ばかりでしたけど、高校最後の大会や高校に入って友達の輪が広がり仲の良い友達と遊んでいたことが思い出に残っています。「こんな日々がずっと続けばいいのになぁ。」と私は毎日思っていました。しかし、高校時代も終わりに近づき、大学受験が迫ってきました。私はその頃、色々な方々の意見に悩みすぎてどのような道に進むべきか混乱状態でした。そして、色々な大学の学部を受験して浪人の道も考えましたが、結局私は合格した大学の中から京都産業大学経営学部経営学科を選択しました。
 大学生活では、私はまだ野球をしていたいという思いがありまして、サークルなどには目もくれずに軟式野球部に入りました。また、経営学部の講義以外にも教師を目指そうと教職課程の講義も履修しました。現在大学3回生10月まで大学生活で何をやったと聞かれて私が答えられることは、部活の野球・教師になるための勉強・バイト・ボランティアが大部分を占めていることです。この大学2年間半はあまり暇がなくて、いつも予定がつまっている日々でした。しかし裏を返せば、ここまで充実した大学生活を送れていたと思います。大学に入って色々な地域の友達ができて、友達の輪が広がったし、オフの合間をぬって友達と色々な地域に行ったりして色んなもの見たりできたので良かったと思います。部活の野球では、週6回練習があって大学で一つのことに打ち込めたことは良かったし、結果的にチームで西日本大会3位になったりして良い思い出ばかりです。残りの大学生活も充実した生活を過ごしたいと思います。
 話は変わりますが、ここで悲しい思い出を話します。大学1回生の秋、部活の秋季リーグ戦中に私の母方の祖父が亡くなりました。私は普通というか当然授業や部活を二の次に考えて通夜や葬式に出るべきだと思い、母に実家に帰ると伝えると、

「あがら帰って来やんでいい!しっかりそっちでがんばって帰れる時に帰ってき!!」  

 私は眉をひそめました。母にそのように言われた時、この言葉の真意は分かりませんでした。そして週末の土日に実家に帰ると、兄も帰ってきておりまして、私と同じことを母に言われたと言っていました。その後、葬式は一度挙げたにもかかわらず、兄と私のためにもう一度親族だけを集めて葬式を挙げてもらいました。その席で母になぜ帰らなくていいと言ったのかを尋ねました。そうすると、母は静かに語り始めました。  

「あれはね、おじいちゃんも若い頃小学校の教師していたやろ?ほやさかいおじいちゃんも孫たちに勉強をおろそかにしてほしくないと心の中で思っていたと思うし、帰って来やんでいいて言ったんよ。昔お母さんがちっちゃい頃、学校を休もうした時だけ怒られたんよ。おじいちゃんは根っからの教師やし、葬式に出てほしいという気持ちより学校にあんばえ行ってから来てほしいと思っていたとお母さんは思うよ。ほやさけあんなえ言ったんよ。」  

 他人から見れば、学校より葬式が大事に決まっていると思われるかもしれませんが、私はこの言葉を聞いてすごく納得しました。
 私が生まれる前の話なのですが、私の祖父は教師をしていまして、栄えている地域の小学校には所属せずに常に学習が行き届いていない小学校に所属して、都市部と同じような学習ができるように和歌山県の生涯学習に対して教師人生を費やしていたのです。普通の教師なら生徒の多い学校で教師をしたい気持ちが普通だと思うが、祖父はそれを拒否して自ら学習が行き届いていない学校への生涯学習を行いました。祖父が亡くなった後、その功績が認められて国から賞をもらっていました。国から賞をもらうことがどれだけ祖父が多大な功績をしたのかがよく分かります。私は祖父の教師している姿を見たことはありませんが、私が尊敬する教師の一人です。祖父が亡くなったことで、私は教師になりたいという希望ではなくて、絶対教師になってやるんだという決意に変わりました。
 ここまで固い決意があるのに私が最初の段落で少しの迷いがあると書きましたが、それは本当に教師になれなくて、堕落した人生を送ってしまうのではないかという不安が最近出てきていて、普通に就職活動しようかという迷いです。しかし、そんなあいまい気持ちで自分がやりたくない仕事に就職したからといって絶対に長続きしないと頭では分かっているのですが、周りからの見えないプレッシャーに決心が揺らぐ時もあります。そういう葛藤もありますが、やはり教師という夢を諦めることはできません。絶対に夢を実現しようと日々精進しています。
 この20年間でのこの三人との出会いがなければ、教師を目指す私は絶対にいないと言い切れます。私は本当に良い出会いをしたと思います。しかしながら教師になる上で他人のものまねは良くないので、私のオリジナルな教師像でがんばりたいです。その教師像は、常に生徒を一番に考えていつまでも熱意を表面に出す教師になります。
 10年後の私は中学校の教師をやっていると思います。教師は決して楽で甘い職種ではありません。しかし、私は熱意を持って第一に生徒のことを考えて真正面から生徒と向き合い、日々教師の仕事をしんどいながらも楽しんでいると思います。教師は一生学んでいくものであり、私は終わりのない職種だと思うので自分に満足するのではなく謙虚に向上心を持って毎日過ごしていると思います。また、今までやってきた野球の経験を生かして野球部の顧問をして、土日も生徒の練習に付き合いながら生徒と共に上を目指して充実した生活を送っていると思います。
 私にはもう一つやりたいことがあります。私が教師になったならば、教師になるきっかけとなった人々に「ありがとう。」と言いたいと思います。私がここまで教師になりたいという気持ちになれたのは私の人生で、すばらしい教師たちとの出会えたことやその方々からの印象に残った言葉が多大に影響されたからです。その感謝の気持ちとして「ありがとう。」という言葉をその方々に言いたいというのが私のもう一つの夢です。

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