優秀賞

「10年後の私へ」

法学部法律学科3年次 堀江 麻彩(ほりえ まあや)

審査員講評

 今の私と10年後の私の間を往復しながら、自分の夢や現実の姿を素直な心で表現しようという著者の気持ちが、流れるような文章から感じられる作品である。また母校京都産業大学を愛し、心の故郷として、ずっと胸の奥にしまっておきたいと想う心が伝わってくる。福岡から上京し、一人暮らしの侘しさや戸惑いを経験しつつ、多くの仲間に助けられながら志学会執行委員会幹部を経験する。そしてマスコミ業界内定という夢を実現すべく、日夜奮闘する様子が疑似体験として語られている。大きな志を掲げ、その時々に与えられた環境のなかで精一杯の努力を果たしてきたことがエッセイからも伺える。エッセイのなかの「京都産業大学にとても感謝する。本当にこの大学に通ってよかった」という文は、著者の正直な気持ちであろう。10年後の私、さらに20年後30年後の私も、こうした気持ちを持ちつづけてほしいし、こうした気持ちを抱く学生がもっともっと増えてほしいと思う。

作品内容

「10年後の私へ」堀江 麻彩

 大ヒットした書籍。『負け犬の遠吠え』。
30歳、未婚、子無し。そういった女性の事を世間では「負け犬」と呼ぶ。明日は我が身か…。

10年後の私へ
 「負け犬」?えっ?それってワタシの事?大きなお世話です。私だってずっと三十路だったわけじゃないのよ。ピッチピチの10代の頃だってあったんだから。いろいろなことがあった10年間。20から30歳までの10年間が私の人生の中の一番の転換期だったように振り返った今、そう思う。

 必死に就職活動をしたのは今からもう10年前のこと。どうしても、マスコミの仕事がしたくてがむしゃらに頑張った。学内講座に学外講座。恋よりもバイトよりも遊ぶことよりも。何よりも先に1番に「就職活動」だった。同じ夢を持つ仲間と夢を追いかけているときが1番楽しかった。当時の私の1番欲しいもの。「内定」。かわいくない大学生。就職活動一色の毎日だったように思える。「何がなんでも、マスコミに」それが当時の私のスローガンだった。

 企業説明会にOB訪問。進路センターに行かない日なんてあったかな?OB訪問をすれば報告。企業説明会に行き何かよいものが得られたら報告。ダメだった場合は愚痴兼報告。忙しいのにいつも私の話しを聞いて、一緒に喜んでくれた。エントリーシートなんて一体何枚書いたかわからない。四六時中、エントリーのことを考え、頭の中はそれのみ。本当にそれくらい必死だった。
 毎日くるエントリー締切日。そしてどんどん届く不合格通知。もう泣きたかった。いや、泣いていた。「もう就活なんか辞める!!私フリーターでいい!!」何度もくじけそうになりながら、それでもエントリーし続けた。そして4月の第1日曜日。いよいよ大本命の会社の試験の日を迎えた。毎日書いては添削、書き直しては添削を受け続けた作文。新聞も毎日隅から隅までよみ学んだ時事教養。苦手だけれども必死で取り組んだ英語。自分ができる限りのことを全てやった。「スポーツの勝負の世界では黒星が並び、最後に1つ白星を取っても何の意味もない。でも就職活動は違う。黒星が何個続こうと最後の最後で白星を1つとれば、今までの黒星は全て帳消しになってそれは金星に変わる」。そういった先生の言葉を何度も思い出した。全身全霊をかけて挑んだ最後の就職試験。そして・・・。
最後の最後で私は特大の白星を掴んだ。
就職活動に精を出しつつも、クラブ活動にも打ち込んだ。就職が決まったあとは特に打ち込んだ。決まるまでの間、クラブと就職活動とのバランスが難しく、悩んだこともあった。けれども、そんな時、支えてくれたのはクラブの仲間であった。「志学会執行委員会」ここが私の居場所だ。信頼できる先輩、同回生。まだまだ手のかかる2回生。とにかくかわいい1回生。みんなに支えられていたからこそ、あの時乗り越えられたのだと思う。クラブ運営を行う「幹部」という立場でつらいこともたくさんあった。「アタシは就職活動の方が大事なの!!!」会議などで時間をとられるたび、いつもそう言っていた気がする。今思えば何て我が儘な女なんだ。それでも一緒に両方頑張ろうといってくれた仲間に心の底から感謝する。これらの1つでも欠けていたら今の私は無かったかもしれない。

 そしてこのような環境を築くことができた母校、京都産業大学にとても感謝する。本当にこの大学に通ってよかった。福岡の親元を離れ、寂しい思いもした。両親はきっと心配もしただろう。でも、ココに来て本当によかった。30歳になった今もあの4年間は宝物として胸の中にしまってある。

 そして色々な困難を乗り越えやっと決まったこの仕事。就職してはや8年。ずっと憧れていた広告(・・)マン(・・)。そう呼ばれることに少々違和感を感じるが、男性主体のこの世界では仕方がないことだ。大学生の頃、毎日夢見ていた会社に勤め、やりたかった仕事をやっている。あの時の自分に今の私が想像できるだろうか。

 今までの8年間、辛い事の方が多かった。もう辞めたい。何度もそう思った1年目。行き帰りの電車の中でよくこっそり泣いたものだった。疲れ果てて寝ているか泣いているかどちらかだった。母はいつも遅くかえってきても「おかえり」と迎えてくれた。それがとても嬉しかった。どんなに辛くてもこれが自分の選んだ道だ。あんなに苦労して入った会社だ。辞めることなんてありえない。その度に涙を拭いて自分を奮い立たせた。

 初めの方は仕事に追われる毎日だった。慣れないパンプスを履き、足にまめを作りながら走り回った。仕事が片付かず、夜遅くまで会社に残ったものだ。仕事に追われたくない、自分が仕事を追い掛けたい。ようやく追えるようになった時、入社から3年目を迎えていた。

 そしてその年、京都に出張があり、久しぶりに大学に来てみた。私が通っていた頃に比べてエレベーターやエスカレーターが増えていた。便利だ。うらやましい。私が4回生の時に1回生だった子達が4回生になり、すっかり頼もしくなっていた。いつも私にしかられていたあの子が後輩をしかっている。とても成長していた。私もこの3年で少しは成長したかなぁ・・・。考えさせられた出張だった。

 そして遂に、初めて自分だけの大きな仕事を任されたのは入社5年目のことだった。ここまで長かった。念願の自分が創った広告。納得のいくものができず、夜通し会社に残り、納得がいくまで企画を練り直した。付き合ってくれた同期の仲間、助けてくれた先輩。いろいろな人にここでも私はいろいろな人に支えられていると実感した。広告が載る日の朝。いつもより早起きして玄関で新聞が配達されるのを待った。そして新聞を広げ、目に飛び込んできたあの時の感動は今でも忘れない。頑張ってよかった。初めて自分の努力が報われた気がした。
余談であるが、祖母はその広告を常にバックに忍ばせ、趣味のカラオケに行く度に仲間に見せているらしい…。

 それから3年が経った。後輩の指導も任され、私ももう立派なベテラン社員だ。今では逆に後輩の企画を助けてあげたり。私も成長したなぁと一人で思ったりもする。気がつけば三十路。この10年間あっという間だった。しかし、仕事に打ち込み過ぎたせいか「結婚」からは遠く離れたところにいるらしい。ヤバイ。周りはどんどん結婚し、年賀状の大半は幸せそうな2ショット写真。結婚式には行くばかり。ご祝儀貧乏ってやつ??人の幸せばかり祝っていて、たまには私のことも誰か祈ってほしいわよ。中には子供が生まれましたまで。女の幸せって何なんだろう・・・。たまに考えてしまう。結婚して子供を産んで。専業主婦になることが女の幸せなのかしら。でも、あんなに入りたかった会社、子供が生まれたからって辞めたくない。子供の出生率はどんどん下がって遂に1パーセントを切ったらしい。当然のことだと思う。子供はかわいいし、欲しいと思うけど、今の日本じゃ子供を産んだ働く女性はやはり損をしてしまうと思う。女性をフォローする法律や制度もできないし。このままじゃ日本から子供がいなくなるんじゃないの?って本気でそう思う。 けれども、たまに母や叔母からかかってくる電話。「うんうん。分かっとるっちゃ。結婚するっちゃ。はぁ?男が見る目がないんばい。する。結婚する気はある。はいはい。見合い!?まだいいっちゃ。相手くらい自分で見つけるっちゃ。はいはい。またね」いつもこんな調子で電話をきる。私だって結婚したくなくてしてないないわけじゃないんだよ。仕事と違って頑張ったからってそう簡単に報われるものでもないし・・・。専業主婦になる気なんてさらさらないし。どうやら、仕事だけが順調でもダメらしい・・・。

 10年後の私よ。四十路で未婚なんて嫌よ。いつまでの王子様が迎えにきてくれるなんて思ってちゃダメだからね!!そういうの、シンデレラ症候群っていうのよ。嫌だからね!!どこかで妥協してでも結婚してちょうだい。
でも今はとってもハッピー。10年後もこのハッピーが続いてますように。明日も頑張ろう。

三十路の私より

三十路の私へ。
 仕事をバリバリするのもいいけど、その前にいい母になっていることも望みます。両立してよね。

二十歳の私より。

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