渋沢栄一(1840〜1931)——— 国民的ドラマの主人公として描かれ、令和6年には一万円紙幣の肖像になる。近代日本の黎明期に数多くの企業や社会事業の設立に携わった渋沢は、志を同じくする仲間とともに仕事を進める「むすぶ人」でもあった。その渋沢を中心に、当時の企業と企業家のありようを研究しているのが、経営史を専門とする松本和明教授だ。
渋沢と地方 — 儒学・漢学者をむすぶネットワーク
——— 渋沢は関東の人ですが、西日本にも所縁があるそうですね。
パリ万博のために渡仏する少し前、渋沢は農兵徴募の命令を受けて備中井原の一橋家領地に赴きます。当初は人々の抵抗もあり、仕事が捗りませんでした。しかし、同地の儒学者阪谷朗廬に出会ったことで、道が開けます。渋沢と阪谷は、これからの国のあり方を巡って議論し、大いに盛り上がった。そして次第に、あの渋沢ってのは大した人物だとの評判が付き始め、地元の信頼も得ることができ、農兵徴募も成功した。それが一橋慶喜の覚えをよくしたといわれています。同じころ備中松山藩で、山田方谷が漢学教育を通して人材育成を行っていました。藩の財政の差配もする方谷は、世のため人のために尽くすことが、人々を幸せにし、社会を豊かにしていくという、いわゆる「経世済民」の思想の持主でした。
その方谷の弟子に三島中洲がいました。三島は当然方谷の考え方に影響を受け、阪谷を介して渋沢にも影響を与えました。当時の学者はお互い密に繋がっていて、方谷、阪谷、三島の間で渋沢の評判も共有されたのでしょう。今のように情報が素早くやり取りされる時代ではありませんが、だからこそ、生まれた絆は終生続くということもあったと思います。後年、三島は第八十六国立銀行(中国銀行)の設立に携わり、渋沢はこれに協力しています。渋沢の「道徳経済合一」を、三島は「義利合一」という言葉で共有していますが、これは方谷の思想が基になっています。なお三島は、もとは口述記録であった渋沢の『論語と算盤』の刊行にも尽力しています。
方谷と渋沢が会ったという記録はありませんが、方谷の思想が渋沢にも共有されたことの持つ意味は非常に大きいと思っています。
阪神電鉄をつくった外山脩造、「京都の渋沢」浜岡光哲
——— 渋沢と繋がる関西の実業界・企業人の研究もされていますね。中には「知られざる人」もいるようです。外山脩造というのはどういう人でしょうか?
外山脩造は越後長岡の人で、北越戊辰戦争で河井継之助に付き従いました(河井も方谷門人の一人です)。死に際に河井が「これからは商人の時代だからお前は商人になれ」と外山に言い遺すシーンが、司馬遼太郎の『峠』に出てきますが、これは史実です。
外山は維新後大蔵省に入り、近代複式簿記の普及や、国立銀行の検査(当時は大蔵省がおこなっていました)を担当します。渋沢が作った第一国立銀行(みずほ銀行)も検査対象で、外山が検査官として出向きます。外山にとって渋沢は大蔵省の先輩ですが、真面目な外山は臆せず、いいことはいいが悪いことは悪いと厳しくやった。渋沢もそこは大腹な人ですから、この若者は見込みがあると、外山を評価するようになります。
しばらくして、大阪の第三十二国立銀行(三井住友銀行の母体の一つ)の経営が傾きかけた時、渋沢は外山を官職からスカウトして、経営再建の責任者として大阪に送りこみます。外山は短期間でこの銀行の再建を果たし、その手腕が認められて、日本銀行設立時には初代大阪支店長に就きます。
その後外山は、自分の仕事をいったん全部おいて、欧米を廻る視察旅行に出ます。そしてニューヨークで電気鉄道を目の当たりにし、これはこれからの日本に必要だという認識を持って戻ってきました。外山の主導で明治38(1905)年にできたのが梅田-三宮間をむすぶ電気鉄道、すなわち阪神電気鉄道で、外山は初代社長を務めることになります。
外山は他にも、大阪麦酒(アサヒビール)、大阪舎密工業(大阪ガス)、関西法律学校(関西大学)など、いろんな企業や団体の設立に関わっています。
——— 外山の人生は波乱万丈ですね。
長岡から東京に出て、慶応義塾で学んで、大蔵省で渋沢と出会い、大阪に差し向けられて、師・河井継之助の言葉通り商人となって大きな仕事を成し遂げていく。大阪の実業界における外山の功績は非常に大きいと思いますが、越後人気質なのか私利私欲の無さなのか、前に出ることの少ない人物であったため、その実像はあまり知られていません。私は、長岡の人たちと協力して、外山の功績を世に知ってもらうための活動もしています。
——— 浜岡光哲というのはどういう人でしょう?
浜岡光哲は「京都の渋沢」ともいえる京都経済界の先人です。外山はニューヨークで同じく視察に出ていた浜岡と出会っていて、浜岡もまたこの時、電車の重要性を理解しました。明治28(1895)年、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に合わせて、現在の京都駅付近から岡崎まで、琵琶湖疎水の水力で発電した電気を使った路面電車が敷設されるのですが、浜岡はこの事業で中心的な役割を果たします。この電鉄が後に京都市電になり、京都市バスや地下鉄につながっていきます。浜岡の仕事は京都市の都市交通のルーツといえるのです。
さらに外山と浜岡は、欧米の経済団体の仕組みを調べ、持ち帰った情報を渋沢とも共有して、日本に根付かせるための制度作りを行っています。現在の各地の商工会議所ですね。東京、大阪、京都の経済団体の設立において、渋沢、外山、浜岡が連携を取ったことは、もっと知られていいと思っています。
史料を追ってどこまでも
——— 今後の研究展開についてお聞かせください。
「京都・関西・西日本における渋沢」はもう少し詳しく調べたいですね。また、大阪経済界の立役者で渋沢と並び称される五代友厚(1836〜1885)、岡山のクラボウ創業者大原孫三郎(1880〜1943)、綾部のグンゼ創業者波多野鶴吉(1858〜1918)の研究も行っています。波多野は「テレビドラマの主人公に」と、地元綾部市の人たちが頑張っています。地元から火が付かないと評判が定着していかないので、それは微力ながらお手伝いしていきたいです。
——— 研究手法は?
主な研究資料は企業・団体の経営文書です。史料をもとに歴史像を編んでいく。会社へ出向くこともあります。紙一枚であっても、見せてもらえるのであればどこへでも行きます。
対象は一つでも、光の当て方、注目の仕方によっていろんな展開が可能です。ただ、歴史作家のような想像力はありませんから、あくまでも客観的な史実に即して、地道にぼちぼちやってきました。で、これからも変えることなくそれでいくつもりです。