脳の現象を自ら再現する回路—動的再構成可能LSIで神経系の現象をコピーする—

コンピュータ理工学部 コンピュータサイエンス学科 鳥飼 弘幸 教授

動的再構成可能LSIで神経系の現象をコピーする

 ――脳の現象を回路上に再現する。そう聞くとSFの世界の話のように思うかもしれませんが、鳥飼弘幸先生の研究室では、まさにそのような研究が行われています。脳や内耳といった生物の器官が持つ高度な機能を、小さく省電力な回路で再現する研究。それを可能にするのが、回路自身が自らを組み替えていく「動的再構成可能LSI」という次世代LSIです。回路工学、非線形力学系理論、神経科学、3つの分野にまたがって、最先端の応用研究をされている鳥飼先生に、詳しくお話を伺いました。

生命の仕組みは非線形

 私が行っているのは、脳の神経細胞などをハードウェア上で再現しようという研究です。

 先行研究の例では、ラットの脳の、短期記憶や脳内の地図を司る部位の機能を停止させて、代わりに脳の情報処理を真似る回路を接続する実験がありました。脳内の地図と短期記憶能力を失えば、エサを取ることはできないはずですが、回路がその部位の代わりになって、ラットは無事再びエサを取れるようになるのです。

 この研究では、古典的なある意味大雑把な手法で成功しましたが、より精密に脳を再現しようと思えば、実際の神経細胞と同等な動作をする非線形システムを採用する必要があります。

 線形システムでは、入力と出力が比例関係になります。例えば、Aを入れたらxが出てくる場合、2Aを入れれば2xが出てきます。非線形システムは、これが成り立たないシステムです。

 生物の世界では、非線形性があらゆる所で見られます。神経細胞はイオンのやりとりをしていますが、イオンが一定量を超えた時に電気信号を発信します。これも非線形です。イオンの量が倍になったからといって、情報処理の能力が倍になるわけではありません。こうした非線形システムを記述しようとすると、線形システムよりも遥かに複雑な数学が必要になってきます。

 私が目指しているのは、脳や細胞の非線形な仕組みの本質を真似られるハードウェアを、低コストで小さく作るということです。そのためには、私が持っている3つの研究背景、回路工学、非線形力学系理論、神経科学が全て必要になるのです。

脳を模倣する回路

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 脳を持ち運べるような小さなハードウェア上で再現するために用いるツール、それが動的再構成可能LSIです。イメージとしては、どんなものにでもなれる汎用の回路が用意してあって、刻一刻と回路図を書き換えていろいろな機能を実現していくものです。脳の学習機能を真似ることができるハードウェアとも言えるでしょう。

 皆さんが使っているPCやスマートフォンのCPUは再構成“不可能”なLSIです。ユーザは、この回路の中身を書き換えることはできません。一方、“静的”再構成可能LSIでは、ユーザが回路を書き換えることができます。さらに、動的にそれを行える( 機器を動かしながら回路を書き換えられる)のが動的再構成可能LSIの特徴です。

 こう聞くと複雑なことのように思えますが、実はこれは私たちの脳が普段やっていることと同じです。脳では常に情報処理をしながら、細胞同士の結合相手を変えたり結合の強度を変えたりして自ら神経の回路を書き換えています。このような特徴の一部を可塑性と呼びますが、動的再構成可能LSIは、生物の神経系が持っている可塑性をハードウェアで再現できるのです。

 動的再構成可能LSIに適切な学習機能を実装すると、神経細胞や脳の一部の動作の本質をLSI 上にコピーすることができます。例えば生きている神経細胞の電気信号を私たちが開発している動的再構成可能LSIに送ります。するとそのLSIは自分自身のハードウェアの構成(回路図)を変えていきます。「この素子と素子を今はつないでいるが、このつなぎ方をやめて別の素子につなごう」という処理を高速で繰り返して、細胞の振る舞いを真似ていくのです。

 単に可塑性を再現できるだけでなく、私たちが開発しているLSIでは、使う回路の数が少なくて済むのも大きなメリットです。コンピュータシミュレーションによって脳を真似ようとすると、スーパーコンピュータのような巨大なシステムが必要になります。生体内に埋め込もうとした時に、それでは実用的ではありませんので、小型・省電力に作れることはとても重要です。

 現在は、LSIを用いて100 個程度のまとまった神経細胞をコピーすることに成功しました。細胞数が増えるほどつながりのパターンは指数関数的に複雑になっていきます。もし1万個くらいの規模の神経細胞を回路上に再現できれば、脳を構成する最小単位をコピーできることになります。これを5年以内に実現するのが今の私たちの目標です。

次世代の人工内耳

 私たちが取り組んでいるもう一つのテーマは、人工内耳です。人間の耳というのは一見単純な器官に見えますが、実は一つの細胞を作るより再現が難しいのです。

 内耳は非線形性が強く、例えば違う高さの二つの音を聞かせると存在しないはずの低い音が聞こえたり、逆に一つしか聞こえなかったり、聞いている音の高さが変化したり、複雑な非線形応答をすることが知られています。現在使われている人工内耳は、そうした非線形性に配慮せず、古典的な音声信号処理の手法で作られています。これでは母音くらいは聞き取れても、子音の判別までは困難です。そこで私たちは、内耳の非線形性にまで目を配って、それを真似られるように人工内耳を作っています。

 内耳には、膜がリンパ液に浮いており、その膜の上に毛が生えた細胞(有毛細胞)がたくさん生えています。風の中に立っていると髪の毛が揺れますが、それと同じように、膜の上に並んだ毛も音の振動によって揺れます。この毛が振動を電気信号に変換して、神経細胞を通じて脳に伝えるのです。

 この毛が抜けてしまうと、音を伝えることはできなくなります。このパターンの難聴の場合は、より奥の中枢系までつながっている神経細胞は生きていることが多いのです。そこで、膜とリンパ液と毛の細胞の代わりをする人工器官を埋めてやると、また元と同じように音が聞こえるようになるのです。

 ここで重要なのが、膜とリンパ液と毛の細胞の一つ一つの動きにきちんと目を配ることです。粘性のある流体の方程式や膜の運動方程式、毛の運動方程式や、イオンの方程式、これらはいずれも非線形な方程式で記述できます。全てを厳密に計算するのは困難ですが、できるだけ本質を失わないようにしてシミュレーションした結果、「聞かせてない音が聞こえる」という内耳の特性とそっくりな応答の再現に代表されるいくつかの内耳の非線形応答特性を再現できました。これは次世代の人工内耳を実現するための第一歩です。

 将来的には、前述の脳の一部を再現する動的再構成可能LSIを用いてアルツハイマー病を治療したり、クラシック音楽まで楽しめるような非線形人工内耳を実現するなど、治療の場面に応用できる器具が作れれば嬉しいと考えています。その一方で、純粋な知的好奇心から「ネット越しの人工的な脳=Brain over IP」を作るような研究も並行して進めています。三本の軸を元に、これからも「型やぶり」な研究に挑戦していきたいと思います。

Brain over IP

 Brain over IPとは、いわば「IP(インターネット・プロトコル)でつながった人工的な脳」です。動的再構成LSIを用いた脳現象再現専用チップと人工的に培養された神経細胞ネットワークを、インターネット越しに脳のような構造でつないでいくことで、従来の計算機を越えた超並列脳型計算機を創りだすことができる、という壮大な構想です。現在の計算機は離散状態と離散時間を持つシステムですが、計算機と有機物をつなぐことにより、現在の計算機が持つ性能の限界を超えることができると期待しています。SFのような話ですが、技術的には不可能ではないと信じています。このような計算機をネットワークで並列的につないでいった時、そこに意識に相当するようなものが芽生えてくるのか。これから取り組んでいきたいテーマです。

アドバイス

 物理や数学などの基礎が上辺だけではなくちゃんとわかることが大事です。中高での勉強の時、自分の興味がある分野で何が必要かを気にすることがいいと思います。オープンキャンパスなどで大学に来てみて、「自分はこういう分野に進みたいが何が必要か」と教員に尋ねれば、高校の時点の科目の中で何が大事かを教えてくれるでしょう。

 例えば私の分野なら回路で数学を使います。受験生が「こんなの一生使わない」と思うような三角関数の公式や微積分の公式なども、実は回路設計では欠かせません。理工系の研究者・技術者の立場から見れば、高校の数学のカリキュラムはとてもよくできています。受験や定期試験を乗り越えるためだけではなく、自分の将来にきちんと役立つんだということをわかって勉強してもらえればと思います。

コンピュータ理工学部 コンピュータサイエンス学科 鳥飼 弘幸 教授

プロフィール

博士(工学)。専門は非線形回路工学。回路工学を学ぶべく大学に進むが、配属された研究室で扱っていたのは、回路は回路でも非線形の回路。そこで非線形力学系に興味を持ち、数学の教科書などを読み漁る。神経科学へ目を向け始めたのは就職してからだが、神経系は非線形システムの例としてよく取り上げられる題材で、人間も非線形系なのかと興味があった。その経歴から回路工学、非線形力学系、神経科学の3分野にまたがる研究に取り組む。東京工業大学付属工業高等学校OB。

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