脳は未来をどう考えているのか—忙しい人のための“脳手帳”をめざして—

コンピュータ理工学部 インテリジェントシステム学科 奥田 次郎 准教授

忙しい人のための“脳手帳”をめざして

 生体計測・情報技術の発達と遺伝子の解明から、急速に進む脳研究。かつて劇的な進展が起こると予測された2010年を間近にして、その行方にはますます注目が集まっています。
 「やるべきことは一杯ある」から、自分の考えを日々蓄積しておくだけで上手に予定を管理してくれる“脳手帳”がほしいと考える奥田次郎先生。その開発を見据えて基礎研究に、日々、余念がありません。そんな夢のような技術が本当に実現できるのか、世界的にもまだ始まったばかりの研究について理論と実験の両面からお話しいただきました。

“脳手帳”と脳神経科学のこれからの課題

 「サイエンス&テクノロジーVol.9のこのページを読み終えてから、お風呂の水を止めよう」という状況を考えてみてください。この場合、何分か後に止めようという《意図》を人はずっと覚えているわけではありません。一旦はそれを忘れて他のことに没頭し、しかるべき時間が経った段階で想い出すのが普通です。ではなぜ、その時になって、人はそれを《想い出せる》のでしょうか。

 残念ながら、このような心の機能の脳メカニズム、つまり脳のどの領域が、やろうと思ったことを想い出すのにどのようにかかわっているのかは、脳科学ではこれまでそれほど研究対象にされてきませんでした。やろうと思っていた二つのことのうち、一つは想い出せるのにもう一方が想い出せないのはなぜかとか、意図を一番想い出しやすいのは、それを忘れている時の脳の状態がどんな時なのか、などについても同様です※1

 しかしもし、このような複雑な脳の機能を解明し、それに基づいて人間の脳活動を情報化できれば、忙しい人にかわって将来のプランニングをしてくれるようなソフトウェアを開発することは夢物語ではありません。それをどのような情報端末で実現するかのインターフェースはともかく、予定をいちいち手帳に書かなくても頭で考えるだけでいいという意味で、私はそれを“脳手帳”と呼んで、研究の一つの到達点としています。

 実際、人間の脳神経細胞から生じるわずかな電気信号を解読して、意図しただけで義手が動かせたり、視覚情報を直接脳に伝えて、目の見えない人を“見えるようにする”BMI(Brain-Machine Interface)の研究(本誌vol.1参照)は、着実に進んでいます。私の同僚は、動物が行動する際の脳の信号を解読し、動物が行きたいと“思った”方向に車を自動制御する技術の研究をしています。

 現在これらの技術が次々と開発されているのは、与えられた刺激を次々と処理してゆく脳の“ボトムアップ”的な活動だけでなく、《今、右を向け》などの“トップダウン”的な命令を脳がどのようにコードしているのか、神経細胞の活動と行動とのリアルタイムな対応が、かなり解明されてきていることによります。

 今後、このようなその場その場の行動との関係だけでなく、未来を予見したり、意図を一旦忘れておいて想い出したりといったようなタイムラグのあるメカニズムの解明にまで研究領域をひろげてゆくことが期待されますが、それにはまだ様々な問題が残されています。BMIでいえば、手を動かそうと考えると手が動くだけでなく、本を読み終わった後に手を動かそうと考えてもその通りできるような技術の開発を目指すのです※2

※1 それは憶え方、あるいは憶える際の脳の働き方に違いがあるのか。もっと言えば、将来何かしようと思ったときに、脳のどこかが強く活動すれば後で想い出したり、実行したりしやすいのか。あるいは、関係のない時に後でやろうと思っていることをふと想い出すのは脳のどこのどんな働きによるのか、等も同様です。

※2 解剖学的な見方も、これまではどちらかというと神経細胞個々の働きに注目してきたが、今後はもっと広い範囲の神経ネットワークの集団的な働きにも注目する必要がある。

実験から見えてきたこと。予見と記憶には共通点が多い

 こうした取り組みをはじめるために、私たちはまず人が未来を予見する際の脳メカニズムを実験で確かめてみました。手掛かりは、記憶の利用です。人間は未来のことを考える際、多くの場合、過去の経験を振り返り、そこからヒントを得たりします。実際に、脳の一部を損傷した患者さんの事例や、乳幼児発達の研究※3から、記憶と予見の間には共通する構造があることが、多くの研究者の間で支持されるようになってきています。

 写真右は、人が昔の出来事を想い出しているときに脳が活発に活動している領域と、人が将来のことを考えているときのそれとを脳機能イメージング※4を使って比べた画像です。

 左が未来について考えている時の画像で、前頭葉という脳の前方の領域のさらに先端部のa、そして後方(写真では左側)に位置する頭頂葉という領域の内側部が活発に働いていることが示されています。同様に真ん中は過去のことを想い出している時の画像です。一目でわかるのは活発に働いている場所がほぼ一致していることです。この実験からは記憶と予見とには共通する脳神経活動のメカニズムがあり、前頭葉から頭頂葉にかけての大脳皮質の内側ネットワークが、両方に深くかかわっていることがわかりました。

  さらに面白いことに、遠い未来、近い未来などの時間的な遠近と活動する領域の対応を調べたところ、遠い未来について考える課題で強く活動する脳部位は遠い過去を想い出す課題でも強く活動し、逆に近い未来と近い過去とで共通する脳部位も存在することがわかりました。記憶と予見は、構造や対応する脳の活動領域も驚くほど似通っているようです※5

写真

上段は脳の内側を真横から、下段は真上から、それぞれ見た状態。向かって右が前、顔方向。各課題で活発な活動が見られた箇所をオレンジや黄色で示している。

※3-1  昔のことを想い出すことができない健忘症患者は、過去の記憶を適切に想起することだけでなく、新しい計画を立てることにも困難を示すことが最近わかってきた。

※3-2 幼児が未来の計画を立てられるようになるのは、過去の経験を語れるようになる時期と一致することも最近の研究からわかってきたことである。

※4 脳を調べるには解剖などで直接調べる方法と、脳を壊すことなくX線やMRI、ポジトロンCT(PET)、光トポグラフィーなどを用いて脳活動を外から計測・画像化する(非侵襲的)方法がある。非侵襲的手法には、中央写真のような脳内の断層画像化の手法だけでなく、頭の表面上での電位変化を記録する方法(脳波計測)がある。この方法には脳の電気活動をリアルタイムに追っていける利点がある。

図

※5  ここではすべて長期記憶のこと。長期記憶は、1回ごとの経験の記憶である《エピソード記憶》と、ものや言葉の意味のような抽象化された状態で保持される《意味記憶》、そして車の運転など、一旦覚えてしまえば後はほとんど無意識で行えるような《手続き記憶》に分けられる。これらを担うのは、主に脳の内側にある辺縁系とそれにつながる脳領域で、記憶の種類によって担う場所も異なることが知られている。オーストラリアの進化心理学者であるサダンドルフ博士らは、未来の予見も、上記のような過去の記憶と共通の枠組みと用語で整理できると提唱する(図)。

人の意思決定はきわめて曖昧

  予見のメカニズムがある程度明らかになれば、次の課題は意思決定や主観的選択などの、予見を行動に移す心の機能の解明です。これには報酬情報処理が重要な鍵を握っています。というのは、人間を含めて動物は皆、より良く長く生存するために必要な報酬を求めて行動を起こすからです。これに関連して私が最近興味を持って行っているのが、「推察的な報酬予測※6」の実験です。例えば、喉の渇いた人にたくさんのドットが一斉に左右に流れる動画(ランダムドットモーション)を見てもらい、それがどちらに流れているように見えたかをボタンを押して選択してもらいます。このとき、流れた方向に応じて報酬がもらえ、例えば左に流れれば数秒後に甘くておいしいジュースが、右に流れれば味のない人工唾液水がストローで口に入ります。ただし、左右を当てるとジュースがもらえるのではなく、結果はあくまでもドットの流れで決まっています。動画は全ドットの動きが同じではっきり左右の区別がつく場合と、半分くらいはランダムな方向に動く区別のつきにくい場合の2種類を設定しておきます。すると、区別がつきやすい動きの場合には、これまでの経験どおり見たままの報酬予測を行うことになりますが、区別がつきにくい動きに対しては、外界から与えられている情報が少ないのである程度自分で推測をしながら報酬予測を行うことになります。ある意味、“思い込み”によって報酬を期待し、意思決定を行うような状況です。

 このときの脳の活動を見てみると、あいまいで区別がつきにくい場合に「左」(ジュースがもらえる方向)と答えたときを「右」(人工唾液しかもらえない方向)と答えたときと比べた結果が写真の右端で、dの部分が顕著に活動していることがわかります。なんとここは、過去を想い出し、未来を予見する時に働くa、b、cに極めて近い場所なのです。さらに、この部分の活動は、受けた刺激そのものの方向には依存しない、つまり間違ってジュース方向だと思えば実際の動きが唾液方向であっても活動してしまう、ということもわかりました。

 ちなみに左右がはっきりとわかる場合は、脳の奥深くに位置する大脳基底核が活発に働きます。ここは刺激依存型、手続き的ともいえる、刺激に対して反射的に反応する領域で、下等動物でも良く発達している神経システムです。反対にdが働くのは、受けた刺激と判断との間に直接の関係が少ない場合、つまり判断がむずかしかったり、判断に思い込み的な期待などを込めたりする場合で、個人の意図や意思、主観などの働く余地が大きい状況の時だと解釈できます。

※6 情報が少なく、明らかに報酬が得られるかどうか分からない状況で働く、類推的な予測。推論に基づいた意味的予見のひとつであると考えられる。

脳の内側ネットワークが鍵を握る?

  このような一連の実験から私たちは、大脳皮質内側部のネットワーク、中でも前頭前野の内側部を、記憶から未来の予見を導き、判断が難しい状況での意思決定を助ける心の機能を担う場所ではないかと考えています。同様の研究をしている学者の中には、この場所を、自分自身を様々な時間・場所・主体に「自己投影」する機能を司る場所ではないかという仮説を提唱する人もいます。過去を思い出すことは、「過去の自分」に、未来の予見は「これから先の自分」に、他人を思いやることは「相手の心」に、「今の自分」を「映しかえる」ことだと考えるのです。

 このように、「自分とは何か」、「意識とは何か」といった、これまで哲学や心理学の命題とされていたものに、脳神経科学は急ピッチで迫りつつあります。意思決定のメカニズムとは、意識・無意識の違いは脳のどんな働きによって生じるのか、なども次第に明らかにされつつあります。そして脳手帳は、その少し先にあります。

 そんなものができたら、人間を補助するどころか、思考や記憶、判断力といった大事な力をかえって弱くしてしまうのではないかという意見も当然出てくるでしょう。個人のプライバシーはどうなってしまうのかということも気になります。そのような危険性について考えてゆくことももちろん研究の重要な一翼であり、すでに活発な議論が進められています。脳科学を正しく社会に応用できるかどうかは、私たちが今後いかに脳研究から学び、その功罪を見極める能力を磨けるかにかかっています。

アドバイス

どんな進路

 心の時代といわれる21世紀、脳やコンピュータ、人工知能について学ぶのは、どんな分野においても役立つことでしょう。ゲームソフトを作るにしても、基本的な人の思考や行動の仕組みは知っておかなければいけないでしょうし、銀行のシステム、経理システムの構築などに携わるのなら、どうすれば人はミスをしにくいかを知っておくことも大切です。学問の世界でも、神経経済学、神経倫理学、神経美学など、脳科学の手法と枠組みから既存の人間社会学問を捉えなおそうという動きが活発です。最近では、脳科学は世の中全ての分野で不可欠だという学者さえもいます。

 心や脳について学ぶには、生物だけでなく、物理や化学、そして数学の基礎知識もあったほうがいいのは当然です。ただ、それぞれの専門で必要なのは全ての分野ではありませんから、必要な分野は大学で深めるという考え方もできます。いずれにしても、思考力・国語力は全ての学問の源になるだけでなく、人として社会で生きていくうえで最も重要な活力です。脳は入力された情報を神経同士のつながりを通して処理して出力します。暗記や計算などは、“刺激依存型”ですから、訓練すればするほど成果が出ます。脳のもう一つの役割は入力情報を整理して蓄え、変形していつどのように使うかを判断すること。こちらは、思考力やどんな入力にも右往左往しない冷静な判断力の源です。どちらの機能を強化するにも「まずは学ぶ」ことが大切だと、脳は教えてくれています

コンピュータ理工学部  インテリジェントシステム学科 奥田 次郎准教授

プロフィール

高校時代は工学分野に興味があり、学部(東北大学)では地球工学を専攻する。大学院修士課程を終えてから医学系へ転向し、脳科学を専門に。高次脳機能障害をもつ患者さんの医療現場で脳研究を始める。地球工学では、地表に出ている岩石の元素分布の計測から地球の履歴や、地熱がどこにあるかなどの地中の物理化学的な変遷を調べた。様々な計測手法を駆使して、外からは見えない内部の情報を集約して意味のあるまとまった形に組み立てなおすという意味では、脳科学も同じだ。ただ、研究すればするほど、地球よりも小さな脳のほうがはるかに奥が深いことを感じさせられる今日この頃だそうだ。兵庫県立神戸高校OB。

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