2024(令和6)年度 学校法人京都産業大学「サギタリウス基金」卒業生顕彰式を実施

2024.10.29

2024(令和6)年9月28日(土)、本学天地館1階ラウンジにおいて、2024(令和6)年度 学校法人京都産業大学「サギタリウス基金」卒業生顕彰式を挙行しました。今年は、大学主催ホームカミングデーの交流会会場で、多くの卒業生の皆さまのご臨席のもと贈呈させていただきました。

顕彰盾の贈呈(左 山田 啓二理事長、右 中村 三之助氏)

卒業生顕彰制度は、学校法人京都産業大学が創立50周年を機に、「国の内外を問わず社会の諸分野において活躍し、社会的貢献を果たし、顕著な業績をあげ、本学の名声を高めた」卒業生に対して顕彰するものです。2024(令和6)年度は、長年にわたり、京都市の地域発展と住民福祉の向上などに貢献され、2024(令和6)年4月に旭日小綬章を受賞された元京都市会議長 中村 三之助 氏(1976(昭和51)年経済学部卒業)に対し、卒業生顕彰「サギタリウス賞」をお贈りしました。

顕彰式では、山田 啓二理事長より顕彰盾などが贈呈されました。この顕彰盾は、本学文化学部教授であり、瑞宝単光章、現代の名工・卓越技能章等、多数の受賞歴がある京蒔絵師・下出 祐太郎氏の作で、書は本学職員OB、書道部OBでもある坂之上 茂氏によるものです。

「よき伝統を引き継ぎ、より一層の奮起を」 中村 三之助氏インタビュー

このたびの卒業生顕彰で「サギタリウス賞」に選出されたのは、元京都市会議長中村 三之助氏(1976(昭和51)年経済学部卒業)です。ご卒業後は京都市小学校教諭、京都市教育委員会(指導主事)として教育行政に携わられ、1999(平成11)年4月に京都市会議員に初当選されました。それから6期24年の長きに渡り、京都市会でご活躍されました。その間、第81代京都市会議長、関西広域連合議会議員(理事)などの要職を歴任され、地域の発展と住民福祉の向上に貢献されてこられました。そして、本年4月には、これまでの功績により「旭日小授賞」を受章されました。また、京都市会・市役所における「サギタリウスの会」の運営にもご尽力されています。受賞のおよろこびの声のほか、これまでの歩みや在学生へのメッセージをご紹介します。

——卒業生顕彰「サギタリウス賞」を受けられたお気持ちをお願いいたします

大学として表彰頂ける価値ある賞と思っており、大変光栄に思っている次第です。有難うございます。最初ご案内を頂いたときはピンと来なかったのですが、この春に叙勲の栄に浴し、そのことからなのかなと思いながらお受けさせていただきました。

——学生時代の印象に残っておられる思い出をお聞かせください。

思い出といえば、やはりサークル・クラブですね。私は最初、アルペンスキー同好会(ゲレンデスキーを楽しむサークル)に入りました。春合宿で5月の連休に立山に行った際に、普通冬スキーの場合はリフトがあるのですが、立山にはリフトがなく、スキー板を担いで残雪のあるところまで登り、滑り終わったらまたスキー板担いで登る、という繰り返しで本当にしんどかったですが、面白かった。楽しかったです。

3年生の時に、競技スキーとして、これまでのアルペンやノルディックといったものだけでなく、ゲレンデの競技も行われることになり、これを切っ掛けにアルペンスキー同好会が体育会スキー部と合併して、「第1回岩岳デモンストレーター選考会」という全国大会に出場したんです。この大会は今も続いている大会で、私はゲレンデスキー部門のチーフとして参加しました。当時は、体育会スキー部としてゲレンデスキーと競技スキーが一緒になったのは、近畿一円全国的に見ても珍しく、京産大だけでした。本学は1回目から出場していますが、近畿で出場しているのは数校しかなく、雪の多い地方の大学が上位の成績を上げる中、関西の中ではよい成績を収めています。その時のスキーを通じての思い出が一番多いですね。今でもスキー部との関りは続いています。

もう一つはゼミです。ゼミ旅行で城崎温泉へ行ったのですが、ここでの思い出は楽しかったですね。やはり学生時代の思い出といえば、スキーを通じての関わりとゼミですね。

——本学で学ばれて、あるいは経験されて良かったと思われることはなんでしょうか

先ほどの質問の回答と重複する部分が多いですが、これまでの活動の中で、掛け替えのない体験ができたことですね。学問の学びというよりも人間関係、人間社会の学びができたなと思っています。今でも友人とは繋がりがあります。エピソードといえば、志学会の会長に友人が選出された際に、私も体育会関係で志学会議員に選ばれて、会長を応援協力する立場になったんです。学園祭の時には、学生が普段扱えることのないようなかなりの予算を志学会が持つんです。そうなると予算の取り合いになるんですね。あの頃、一学生がそれだけの予算を使っていくために、学生自身が自主的に考えて調整していくということを学生だけでやっていました。そういう意味ではガッツはあったと思いますよ。学生といえども大人でしたね。

——在学当時から政治の世界を志しておられたのですか

いや全くなかったですね。小学校の時からボーイスカウトのリーダーをずっとやってきているんです。4年生の時に、ボーイスカウトのインターナショナルキャンプスタッフという国際キャンプスタッフ派遣に応募して合格し、約2カ月間アメリカのキャンプ場で向こうのボーイスカウトの子供にロープワークや救急法を教えるプログラムに参加しました。主催はアメリカ連盟で。ここでの刺激が多くて、すごく良かったんです。これまでボーイスカウトの活動をずっとやってきて、リーダーもやってきて、それが終わるという時に、このボーイスカウトの活動ができるような仕事をしたいと思いました。当時、ある有名企業に推薦をいただいており、大学には迷惑をかけてしまったのですが、それを断って小学校教員の採用試験を受けて教員になりました。教員の仕事では、今までボーイスカウトで経験したことがいろいろな仕事にものすごくプラスになりました。
議員になったのは、ある時、上京区の市会議員さんが勇退されるので、次の候補者になってほしいと依頼が来たんです。私が、勇退される議員の地盤である上京区の小学校に勤務していたご縁もあり、お引き受けし、選挙ではおかげさまでトップ当選を果たしました。そういう経過なので、学生時代から議員になるという思いはなかったんです。

——今の大学をご覧になってどのように感じられますか。また後輩へのメッセージをお願いします

大学そのものは、綺麗になって大きくなって立派になり、大変うれしく思っています。ただ、いろんなところで大学の名前を見たときに、昔はラグビーであったり、野球であったり、陸上や馬術など、京産大の活躍が目立っていましたが、最近は悪くはないけど、めちゃくちゃ良いわけでもないという印象があります。もっと大学の名前が売れるようなところで活躍してほしいと、期待しています。
先ほどもお話したように、活気がある、ガッツのある学生が多かったのがこの大学の特徴と思っているので、ぜひそういう良き意味での伝統を今の学生の皆さんも意識して、より一層奮起していただけたらなと期待しています。

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「神山の絆」は、卒業生と本学との絆を一層強固にする一環として卒業生向けに発信しているコンテンツです。母校、京都産業大学がより身近なものになればと願っています。これからも、WebサイトやFacebook等を通じて、京都産業大学と卒業生の皆さまとの“絆”をむすぶコンテンツとして、在学生・卒業生の活躍や本学の教育・研究成果などの学内のホットなニュースを随時お届けします。

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