第1回目 森 蘊(もりおさむ)氏について

2020.08.20

森蘊氏と日本庭園

森蘊氏(1905-1988)は日本庭園史の基盤を築いた人物で、全国の歴史的な日本庭園の保存や整備に尽力されました。 
昭和4(1929)年、東京帝国大学に入学した森氏は造園学や建築学の授業をきっかけに日本庭園に興味を持ち、研究を始めます。
昭和27年、奈良文化財研究所の建造物研究室室長に任命されると、桂離宮や修学院離宮の研究を開始し、庭園の測量にも力を注ぐことになります。昭和42年、奈良文化財研究所を退官された後は、庭園文化研究所を設立し所長として多くの庭園の整備に携わりました。京都においても法金剛院や浄瑠璃寺等、多くの庭園を整備しています。
森氏の整備の特徴として、徹底的な文献資料の分析や精密な実測調査と発掘調査を基に進める点が挙げられます。この方法は現在の文化財庭園の保存と修理の礎になっており、日本庭園史の研究において森氏の業績はまことに大きいものといえるでしょう。

※森氏の業績については本学文化学部准教授マレス・エマニュエル氏のHPにも詳しく紹介されていますので、そちらも併せてご覧ください。(URL:https://mori-osamu.com/index.html

①森蘊門下生一同『森蘊先生著述作品目録(稿)』(平成元年、庭園文化研究所)より転載、個人蔵

森蘊氏とスケッチ

森氏は膨大な図面とともに自筆のスケッチも多く残しています。現場には必ず矢立*と自作のスケッチブックを持参し、スケッチをしていたといわれています。森氏の死後、スケッチの一部は本にまとめられ「写生帳」として発行されました。
また、森氏は年賀状のデザインも自身で作成しており、毎年届けられる年賀状を楽しみにしていた方も多くいました。画像②は昭和59年の年賀状で、和歌山城紅葉渓庭園をスケッチした時のものが使用されています。
画像①は晩年の森氏ですが、矢立を使用しスケッチをしている様子が残されています。

※図面については、実際の展示でご覧いただければと思いますので企画展開催までお待ちください。

*矢立…筆と墨壺を組み合わせた携帯用の筆記用具である。墨壺の中に綿などを入れて、そこに墨汁を注いで使用する。

②年賀状(昭和59年)、個人蔵
③、④森蘊『写生帳』、京都産業大学ギャラリー蔵

森蘊氏との思い出

当ギャラリー室長 鈴木久男は森氏の存命時代を知る一人です。
学生時代、森氏の書籍に感銘を受けた鈴木は、奈良大学で非常勤講師として教鞭を取っていた森氏の授業を受講しました。森氏の授業は学生と教師が円座になって意見を交わしあうスタイルで、学生の質問にも真摯に答える姿が印象的だったと述懐します。
大学卒業後、現公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所へ就職した鈴木は、様々な遺跡の発掘調査に携わりました。
昭和57年2月から4月には高陽院(かやのいん)*の発掘調査を行い、森氏へ現場指導を依頼します。この時、鈴木は森氏がスケッチをしている様子等を撮影しています。
以下の画像がその時の写真です。画像⑤の右から二人目の人物が森氏で、右手に筆を持ちスケッチをしていることがわかります。
画像⑤の手前と画像⑥の中央部分に見える白い石は州浜跡で、この調査で高陽院の庭園遺構が初めて明らかになりました。

最後に、森氏がこの時の発掘調査について記したことを紹介し、第1回目は終了させていただきます。

「京都市上京区(平安京左京二条二坊)に残るこの一帯が最近発掘され、昭和56~7年にその事前発掘が行われた。私はその現場を見せてもらったが、建物跡らしい柱位置を示す跡と、それほどへだたっていない位置に、昔の池岸を思わせる自然風な弯曲している汀線らしい玉石敷きの洲浜と、池底らしい所にも拳大の玉石が美しく敷かれているのが検出されていた。それは庭園跡の一部にすぎないが、その選択された洲浜の材料と、汀線から池底へのゆるやかな勾配のあり方などは、まさしく『作庭記』流の技法の表現と見ることができるような気がした。こういう庭園遺跡も地下に埋めもどされたが、目で見られる姿で残存されることが望めないのは残念なことである。」**

*高陽院…賀陽院とも。桓武天皇の皇子賀陽親王の邸宅の地と伝えられる。平安京の中御門大路南、堀川小路東、四町に及ぶ大規模なもので、藤原頼道の邸宅や後冷泉・後三条天皇の里内裏となった。(『国史大辞典』参照) 
**森蘊『「作庭記」の世界』(日本放送出版協会、昭和61年)、154頁より引用

⑤、⑥公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所蔵、昭和57年撮影

参考文献:財団法人京都市埋蔵文化財研究所『昭和56年度 京都市埋蔵文化財調査概要(発掘調査編)』

※次回は法金剛院について紹介します。

PAGE TOP