- HOME
- 交通広告『その挑戦が「型やぶり」』シリーズ1
交通広告『その挑戦が「型やぶり」』シリーズ1
日本人初のプロ選手が
目指すのは、世界一。
そのプレーの激しさから「地上最速の格闘球技」と呼ばれるスポーツ「ラクロス」。日本ではまだメジャーでないこの球技に情熱を燃やす一人の京都産業大学卒業生がいる。
プロラクロス選手、山田幸代さん。大学から始めたラクロスを通じて多くの壁にぶつかり、仲間とともに乗り越えることでチャレンジ精神を育んできた彼女は「挑戦し続けることが本当に楽しい」と満面の笑顔で語る。
「楽球(ラクロス)」
楽しんでChallengeしよう!
なぜ大学でラクロスをしようと思ったのですか?
私はラクロスというスポーツを知らなかったのですが、たまたまゼミの友だちに誘われて練習に行ったのがきっかけです。高校まではバスケットボール部だったので、いつも大きなボールを素手で扱っていましたが、ラクロスは「クロス」という道具を使ってボールを投げるスポーツ。最初はボールを真っ直ぐ投げることさえできませんでした。だからこそハマったのだと思います。「うまくなりたい、強くなりたい」という気持ちが芽生え、ラクロスを本気でやろうと思ったんです。
京都産業大学で成長したのはどのような点だと思いますか?
プロラクロス選手
むすびわざアンバサダー
山田 幸代
私自身は大学4年間ですごく成長できたと思います。スポーツ推薦で入学した高校にはバスケットボールのコートがありましたし、監督やチームメイトもいました。練習に集中するにはとても恵まれた環境だったと思います。でも、なんとなく敷かれたレールの上を走っているようなイメージがありました。大学のラクロス部はその反対です。練習用のグラウンドがなかったので自分たちで探しに行かなければなりませんでしたし、チームメイトを増やすための勧誘活動も行いました。学生時代は「これは自分がもう一つ上のステップに挑戦するための舞台」と考え、そのような環境を楽しみながら「形がないもの」を創り上げることにチャレンジしていました。
自分自身がラクロスを通じて特に成長できたと思うのは、「もっと上手くなりたいとチャレンジすること」、「自分ができないことは何なのか分析すること」、そして「それに対して自分の中で評価をつけること」ができるようになった点です。
それと、「周りの人への気配り」や「人への伝え方」もラクロスを通じて学んだことです。私は大学2年生の時に日本代表メンバーに選ばれ、世界の強豪国とも戦っていました。一方、大学のチームはあまり強いチームではありませんでした。それでも皆ラクロスが好きで一生懸命頑張っていました。しかし、日本代表の練習や試合で見ていた景色と大学に帰ってきた時に見える景色は全く違っていました。そのギャップにフラストレーションがたまった私は、大学での練習中、先輩に対しても激しく自己主張していました。「なぜこうしてくれないんですか」、「どうしてこのパスが取れないんですか」、「なぜここでシュートしないんですか」。リーグの初戦が始まる直前の練習中、いつもと同じように自己主張ばかりしていると、キャプテンに部室に連れて行かれました。彼女は泣きながら部室のドアの向こうを指して言いました。「あんたの気持ちもわかるし、あんたのレベルもわかる。この京都産業大学の選手たちにどういう風に言えば自分の思いが伝わるか、まずそこを勉強しろ」と。
キャプテンに言われて初めて、私は自分勝手なことばかりしていたことに気づきました。周りの人のことを考えず、自分のテリトリーに皆を入れることしか考えていなかったんですね。それでは自分の想いは伝わりません。伝えるには、まず自分の中でしっかりと答えを出すこと。次に、その答えを皆に伝え、それに対する皆の答えを聞くこと。そして、自分の答えと相手の答えを足して、チームの答えにしていくこと。キャプテンに叱られたことをきっかけに、私はそういう答えの出し方を身につけることができました。
大学を卒業し、社会人としてラクロスを続けておられたそうですが、なぜプロになろうと思ったのですか?
ラクロスを始めた時と同じなのですが、私は「形のないものを創っていく楽しさ」というものを感じていました。昔から子どもが好きで接する機会も多く、「大きくなったら何になりたい?」と聞いていたんです。「Jリーガーになりたい」、「プロ野球選手になりたい」という子どもはたくさんいるのですが、今まで「ラクロス選手になりたい」という子どもに出会ったことがありませんでした。
ラクロスはこんなに面白いスポーツで、自分もこんなにハマっているのに、なぜラクロス選手になりたいと言う子どもがいないのか、私は疑問に思いました。そして、ラクロスを知っている人が少ないからだと気が付きました。それならば自分がラクロスの面白さ、楽しさを伝えていこう、普及させよう、と思うようになりました。でも、ラクロスでお給料をいただいて生活をしている人が一人でもいなければ子どもの夢にはなりません。だから今でも私の大きな夢は「ラクロス選手になりたいと子どもに言ってもらえるようなスポーツにすること」なんです。
そしてある時、企業の方から「プロとして挑戦してみれば」とお話をいただき、「やらせてください」と即答しました。その頃は会社に勤めていましたし、仕事も波に乗っていました。しかしそれ以上に、自分の可能性、ラクロスの可能性を広げたくて、プロになることを決意しました。
なぜ世界に挑戦しようと思われたのですか?
2005年にアメリカで開催されたワールドカップに日本代表として出場した時、自分のプレーが全く通用しませんでした。プライドも自信も全て失い、自分の精神的な弱さを痛感しました。そのことがきっかけで世界のラクロスと日本のラクロスの違いがどこにあるのかを考えるようになり、答えを見つけるためにオーストラリアに行きたいと思っていたんです。プロになった時、さっそくオーストラリアのチーム宛にメールを送りました。オーストラリアリーグはトップチームのメンバーとして16人しか登録ができません。「そのリーグに入れるかどうかはわからないけど、来てもいいよ」とお返事をいただき、トライアウトのような形でチームに入れてもらいました。それから今もずっとそのチームでやらせてもらっています。
ワールドカップ出場、世界一に挑戦している山田さんにとって「挑戦」とは何ですか?
何かにチャレンジすることは子どもの頃から好きでした。チャレンジする舞台、チャンスがあるなら一歩踏み出す、というのが自分らしいと思うので、常にそのように生きてきました。自分の生きていく中で「挑戦」がなかったら楽しくないと思います。チャレンジし続けることで自分の人生を充実させる、楽しくするという考え方が自分の根本にあります。「人生お一人様1回限り、楽しまないと損」。本当にそう思うので、自分が楽しむためにチャレンジしています。
私はチャレンジの目標を設定する時に、短期、中期、長期の目標を持ちます。長期の目標は全く変わりません。「大きくなったらラクロス選手になりたいという子どもが増えてくれること」、それが自分の夢でもあります。短期、中期の目標は、達成したら次の目標へと変えていきます。それがモチベーションを保ち続ける秘訣です。軸は変わりませんが、目標を達成するためのアプローチの道筋はどんどん変わります。その中でいろいろな人との出会いや環境の違いを楽しむ。それがチャレンジし続ける秘訣だと思います。楽しまないと、どうして練習してるんだろうと思ってしまいますよね。楽しめればもっとやりたいと思いますから。
京都産業大学は50周年を迎えるにあたり「Keep Innovating.」「型やぶりな挑戦」などの言葉を掲げていますが、大学4年間でどのように挑戦心が培われたと思いますか?
私は4年間をラクロスに捧げ、充実した学生生活を過ごしました。形のないものを創っていくということが楽しかったです。そこからさらに、この学校をもっと元気にしてやろうと思っていました。今は大きくなりすぎて、日本を元気にするぞ、と思っています。京都産業大学は、学生も職員の皆さんもとても元気で、私はいつもその「元気」に後押しされていました。「もっとやってきていいよ、もっとやってきていいよ」と言ってくれたおかげで、私はチャレンジしつづけることができたと思います。
自分のチャレンジ精神もこの大学で培われたものだと思っていますし、そういう挑戦心というものを発信していきながら、地域の人たち、子どもたち、そして在学生たちとコミュニケーションをとりながら、世界と京都産業大学の架け橋になっていけたらなと思っています。