総合生命科学部 動物生命医科学科 教授 加藤 啓子

記憶や学習、てんかん、うつ、ストレス性情動障害 脳神経の「可塑性」からそのメカニズムを探る

 脳は生体機能全般を統御する中枢器官。感覚系、運動系、そして学習やホルモン制御を担う辺縁系から構成されています。それらを十全に機能させる脳神経の振る舞い。それを可塑性から解き明かすユニークな研究が世界的に注目されています。

なぜ心に刻まれた記憶は忘れにくいのか 「てんかん」を対象に脳神経の可塑性を研究

 専門分野は動物神経解剖学。脳神経の「可塑性」がなぜ、どのようにして起こるのかを、マウスを使って研究しています。
 可塑性とは、力を加えると変形しやすく、加えた力を取り除いても変形がそのまま残る性質のこと。脳神経の可塑性とは、例えば何かを暗記することによってニューロン(神経細胞)の形が変化、シナプス(他のニューロンに情報を伝える端子のようなもの)が増えるなどの物理的変化が発生、それが保持される現象を言います。
 記憶が変化・保持(可塑性)されるのにリンクして脳神経の物理的状態も変化・保持(可塑性)され、勉強や運動、楽器の練習など「知識や技術の蓄積」とは、実は「脳の可塑性」を鍛え上げて記憶させることにほかならないのです。
 この研究に着目したのは「なぜ一夜漬けの勉強はすぐに忘れるのに、心に刻まれた記憶は簡単には忘れないのか?」との疑問からでした。
 これは、記憶 学習の中枢である海馬を含む辺縁系に情動学習中枢である扁桃体が含まれ、記憶に大きく影響を与えているからです。太古の昔から私たちの祖先は周りの危険から身を守るすべを、この扁桃体が生み出す「恐怖」の感情(情動)を原動力として脳に刻み込んできたのです。
 感動的な出来事は一生涯記憶され、非常に恐ろしい出来事や悲しいことも強い記憶となり、病的な場合は不安障害を引き起こします。人が過度に心身性ストレスを日々持続的に受けた場合、脳は負の可塑的変化を示して、時としてうつ病などの気分障害を発症します。
 こうした情動と脳の可塑性のメカニズムを解明することを目的に、私たちはギリシア時代の昔から研究されたきた病である「てんかん」に着目しました。てんかんとは脳の中でなんらかの電気ショックが発生、意識を失ったり、別名「神経の発火」といわれる「けいれん」を起こしたりする症状を慢性的に引き起こす病気のこと。例えば引きつけが月15回以上おこると、引きつけが“くせ”になります。この“くせ”もてんかんです。
 これは脳の可塑性が極度に強まった状態であり、てんかんのメカニズムの研究が脳の可塑性のメカニズム解明に最適だと思えたからです。
 てんかんの人は100人に1人の割合で存在、日本だけでも約100万人の患者がいると言われています。そのうち20%は薬が効かない「難治性てんかん」。難治性てんかんの50%は情動系回路のセンターとも言える扁桃体を含む側頭葉で起きています(側頭葉てんかん)。
 マウスの脳に手術を施す事で、側頭葉てんかんのモデルマウスを作り出すことができ、それをモデルに研究を進めれば、情動と脳の可塑性の関係が探れるはずです。
 側頭葉てんかんモデルマウスである「扁桃体キンリングマウス」は、情動学習の中枢である扁桃体を1日1回4週間、延べ20回以上にわたり直接刺激することで作り出します。これは数あるてんかんモデルの中でも、ヒトの難治てんかんを最も強く模倣しており、抗てんかん薬開発時にはヒト発作型の最終的評価モデルとして一番有用だとされているモデルで、実験に最適です。

世界初の発見! シアル酸転移酵素がてんかん発症に関与

 モデルマウスを使って最初に探したのはてんかんの原因物です。着目したのはシアル酸という酸性の糖。脊椎動物に多く見られ、無脊椎動物にはほとんどみられない“ほ乳類の高次(な)脳で保存された糖”。脳内での発現が他の器官よりも5倍も多いこと。こうしたことからシアル酸が脳の特色の一つを担っていると考えられ、脳神経の可塑性にも関わっている可能性が大だと推測されました。
 シアル酸はゴルジ体の中で糖鎖(複数の糖がつながった化合物)を作るときに、シアル酸転移酵素が触媒となって付加されます。
 ただし、糖自体を脳内で観察するのは難しいのですが、遺伝子発現の変化は脳内で観察可能です。そこで遺伝子発現により生成されるたんぱく質酵素(タンパク質や脂質へのシアル酸付加を触媒する酵素)、つまり脳内のシアル酸転移酵素を追跡してみたところ、てんかんが強くなればなるほどその量が増えることが分かりました。
 しかも、マウスにてんかんを起こさせるために刺激した部位で増えています。この酵素がてんかんの発症に関わっている可能性が高まりました。
 逆に言えば、この酵素をなくすとてんかんが起こらないはず。そこでシアル酸転移酵素を作れないマウス(ノックアウトマウス:遺伝子欠損マウス)を作り、20数種類あるシアル酸転移酵素のうちの1つ「ST3Gal IV」がてんかん獲得と深く関わっていることを世界で初めて明らかにしました。

てんかんからうつ病など神経精神疾患まで 成長ホルモンが大きなカギに

 ただ、このノックアウトマウスは、てんかんこそ発症しませんが、環境適応障害(環境への慣れが遅い)や睡眠障害(睡眠周期に問題があってREM睡眠がほとんどない)、不安障害(恐怖の記憶が強く残りやすい)を持っていることが分かりました。このことからシアル酸転移酵素がこうした障害と関わりを持っていることが推測されます。
 同時に、てんかんマウスの脳内にはシアル酸転移酵素と同時に成長ホルモンも多く含まれているのですが、ノックアウトマウスはシアル酸転移酵素を作り出さないだけでなく、脳内の成長ホルモンが激減していることも分かりました。マイクロアレイという技術を使い、メッセンジャーRNAを解析して明らかになった事実です。
 また、成長ホルモンは本来下垂体で分泌されて血中へ出ていくのですが、大脳でも発現していたことが分かりました。これは世界初発見でした。
 一方、普通のマウスの脳内の成長ホルモンを抑制すると、行動量の減少(うつ様行動)が見られました。
 このほか、マウスだけでなく臨床の現場でも、大人になってからてんかんを発症する人の中にはうつ病治療をしている人が多いことが知られています。
 こうした知見から、てんかんとストレス性情動障害のつながりを解明するうえで成長ホルモンが大きなカギを握っていると推測、それを実証すべく研究を進めています。
 既に、成長ホルモンの投与で発現が変化する遺伝子を3つ発見しています。その3遺伝子と行動量の間には相関関係があることが分かっています。こうしたことから「成長ホルモン」をカギとして、てんかんとストレス障害のつながりが解明される可能性があります。
 現在進行中の具体的テーマは次の3つ。 (1)難治てんかん発症機構の解明。 (2)シアル酸修飾が制御する情動系神経回路の応答機構の解明。 (3)ボツリヌス毒素によるてんかん発作抑制機構の解明。
 いずれも、てんかんモデルマウスやストレス性情動系障害モデルマウスなどの疾患モデルマウスをもとに、症状を追いながら、行動学的解析、脳波計測を中心とした生理学的解析、組織学的解析、生化学的・分子生物学的解析などによって原因分子の特定を目指しています。
 いまだ分子レベルの裏付けに基づくメカニズムの全容を知るための研究課題は山積しており、現在の研究レベルはスタート地点から少し前に進んだ状況です。
 海馬-扁桃体を中心とする情動記憶がどのように生じて辺縁系での神経可塑性の獲得が行われるのかを詳しく解明し、てんかん〜うつ病・不安障害に至る神経精神疾患の診断法や治療薬の開発につなげていくことを目指しています。

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