文化学部 国際文化学科 矢野 道雄 教授

古代発祥の科学が息づく
インドの特異性を徹底究明
変革期の“今”をインド文化史に刻む

中国に次ぐ世界第2位の人口を誇り、
昨今目覚しい経済発展を続けるインド。
かつては哲学や仏教の側面から語られることの多かったインド学だが、
もはやそれだけでインドの全貌を把握するのは困難な時に来ている。
悠久の歴史のなかで紡がれたインド科学を
重要な文化的要素として捉え、過去と現在を相互比較する、
新しいタイプのインド学を探求する。

文化学部 国際文化学科 矢野 道雄 教授

哲学や宗教学とともにインドの文化を形成してきた伝統的な科学の領域にも目を向けなければいけません。

 私が専門とするインド学は、日本では長らくインドの哲学や宗教を主体とする学問でした。確かにそういった領域もインドを知る上で大切な要素であることに違いありません。しかし、それだけではインドを本当の意味でトータルに捉えたと言えないのではないか−私は疑問を抱きました。そこで知ったのは、インドにおける科学の存在です。いかなる時代のいかなる国においても、その国の文明を解き明かす過程で科学を無視することはできません。したがって私は、インドにおいて特異な発展を遂げてきた天文学、数学、医学の3つを主なテーマに研究を続けてきました。

 インドの科学を文化史的に解明するために、私が心がけているのは過去と現在を切り離さず、連続したものとして扱うということです。当たり前のようですが、以前は過去の古い文献のみに注目し、近・現代への連続性はあまり重視されていませんでした。しかし、今は人類学や民族学の分野などでフィールドワークがさかんに行われていますね。それと同じように、インド学も現代に生きている文化を見ることよって過去が垣間見えたりします。逆に現代だけを見つめていても真相をつかめないことがある。インドのような長い歴史を持つ国の場合、古代と現代の文化を相互に照らし合わせる方法がもっとも適しているのです。

  • 『インド医学概論−チャラカ・サンヒター』

    『インド医学概論−チャラカ・サンヒター』(朝日出版社)
    2000年間、インドで読み継がれてきたアーユルヴェーダを主題とするインドの古典医学書『チャラカ・サンヒター』の第1巻「スートラスターナ」の全30章の翻訳。

  • 『インド数学研究−数列・円周率・三角法』

    『インド数学研究−数列・円周率・三角法』(恒星社厚生閣)
    マーダヴァ、ニーラカンタらインド数学者の著作を紹介した前半部と、数列、円周率、三角法のインドにおける歴史を解説する後半部からなる。楠葉隆徳氏、林隆夫氏との共著。同書の功績を称え、2005年に(社)日本数学会より日本数学会出版賞を受賞、2006年にはインドエ科大学ボンベイ校(IIT Bonbay)の学長から表彰を受けた。

古い要素と新しい要素が融合し発展した現代インド人も拠り所とする天文学は、インド特有の思考法を象徴する学問

 実際に時代を超えた文化の相互比較を行ってみると、インドほど古代文明の痕跡をくっきりと現代に残している国はないということに驚かされます。たとえば、インドでは紀元前まで遡る、アーユルヴェーダという伝統医学が今なお生き続けており、その知識や技術によって医師の資格を得ることが認められていたり、患者もごく普通に治療を受けています。このアーユルヴェーダはヨーガなどを通じて世界的に知名度を高めていますが、インド天文学については残念ながらあまり知られていません。しかしこれも伝統医学と同じく、現代インドと密接に関わる科学領域にあると言えます。

 古代では天文学と占星術は切り離すことができませんでした。インドに限らず、エジプトでも中国でもイスラムでも、古代の人々は月の満ち欠けや星の動きなどをつぶさに調べ、そこから導かれた一定の法則をもとに祭祀を行ったり、未来を占ったりしていました。そのなかでインド天文学は、紀元前に確立された古い要素と、紀元後、ギリシアから伝播した新しい要素とが融合して独特の発展を遂げ、それが現代まで連綿と受け継がれているという特徴を持っています。

 日本では神社などが発行するいかにも古典的な装丁の暦がありますが、現代天文学に基づき月と太陽の位置から朔の日を計算したもので、中身は一般的な「カレンダー」と大差ありません。もちろん、結婚式は大安の日、お葬式は友引を避けるといった占い的要素をはらんでいますが、インド天文学から生まれた伝統的な暦はその比ではありません。

 インドの暦は「パンチャーンガ」※と呼ばれ、「5つの部分からなるもの」という意味を持っています。5つの要素とは、(1)月の満ち欠けの周期である朔望月を30等分したもの(ティティ)(2)日曜日から土曜日までの七曜(ヴァーラ)(3)黄道360度を27等分したもの(ナクシャトラ)(4)ティティの半分の単位(カラナ)(5)太陽と月の黄経の和を13度20分で割ったもの(ヨーガ)を指します。このうち(2)の曜日の概念のみ紀元後に西洋から伝わったもので、そのほかはインド起源の極めて古い要素です。

 そして、インドの人々は古来よりパンチャーンガを生活ならびに人生の道しるべとして活用しているのです。スタンダードな暦は、先に述べた5つの要素の変わり目がその日のどの時刻に起こるかをインドの時間単位で表しています。したがって、たとえば結婚に適した完全無欠の“大安吉日”は、日単位ではなく時間単位で訪れるので、インドではしばしば真夜中に結婚式が執り行われたりするのです。しかも、パンチャーンガは地方によって内容が若干異なるため、仮に男女の出身地が違ったりすると、ますます日取りを決めるのが困難になるのですが、お互いの誕生日の惑星の位置を示したホロスコープ図を突き合わせるなどして徹底的に占いにすがるカップルが少なくないようです。

 パンチャーンガを職業的に利用しているのは、古来より占星術師と決まっています。その人口は定かでありませんが、犬も歩けば“占い師”に当たるというくらい、どこの町にも大小さまざまな占いの館が点在しています。私が約20年前にインドで占星術師の取材をした時は、伝統的なインド天文学に基づき手計算でホロスコープを作っている占星術師がほとんどでした。50種類以上集めた市販の暦も同様です。ところが、その後20年の間に、インドの占星術を取り巻く状況は大きく変化しました。多くの占星術師が手計算をやめ、コンピュータを導入しているのです。数年前に訪印した際も、ある占星術師が「自分の代は手計算だが、息子にはコンピュータを使わせる」と断言していました。今後私は失われつつある伝統科学の記録を行うとともに、コンピュータがどのようにして伝統科学と融合していくかを注意深く見守っていきたいと思っています。

インドで集められた伝統的な暦「パンチャーンガ」

※インドで集められた伝統的な暦「パンチャーンガ」

IT産業の目覚しい発展の裏にあるインド古来の理論的な発想を共有すればよりよいパートナーシップが築けます。

 文化の保護という観点では占星術のコンピュータ化は好ましくない面がある一方、来るべくして来た変革だと私は思います。というのも、古代インド人が編み出した計算方法は極めて理論的で、プログラム化に大変よく馴染むからです。私はかつてインドの古代文献の年代を西暦に換算できるプログラムを作成したので、そのことは身を持って実感しています。このプログラムは私のホームページ(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~yanom/pancanga/index.html)で実行できます。これは世界の多くの人々に利用されています。

 今やインド人技術者なくして世界のIT技術の進展はないとさえ言われ、インド国内のIT企業自体が華々しい活躍を見せています。その原動力となっているのが、天文学に応用されてきたインドの卓越した数の処理法や論理的思考法です。

 古代から現代まで一貫して流れ続けるインド科学の潮流は、今後さらに勢いを増し、近い将来、世界を席巻することでしょう。多くの日本企業がインドへ進出している今日、私たち日本人が科学の領域も含めてインドという国の文化や歴史的背景を理解し、より強固なパートナーシップを築くことが望まれます。

  • 『星占いの文化交流史』

    『星占いの文化交流史』(勁草書房)
    世界各地の古代文明で用いられた多様な星占いを取り上げ、「科学」としての占星術の発展と伝播の歴史を解説する。

  • 『密教占星術』

    『密教占星術』(東京美術)
    平安時代に流行した密教占星術「宿曜道」の源流をインドにたどり、『宿曜経』をインドの占星術書と比較し、その成立過程と構造を明らかにした。

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