文化学部国際文化学科 鈴木 久男 教授

鎌倉・室町時代を代表する邸宅である北山第と北山殿その庭園と遺構を鹿苑寺(金閣寺)に散見することができる

 栄華を誇った公家の西園寺公経が衣笠山の麓に建立した西園寺・北山第。
 平安京の庭園に思いを馳せた三代将軍足利義満はその池泉庭に往時の壮麗な姿を見出し北山殿を築いたのではないか。
 最近、発見された文字資料によって不動明王や石室の歴史が南北朝の時代まで遡る可能性が濃厚になってきた。

文化学部国際文化学科 鈴木 久男 教授

平安時代に確立した日本の庭園の様式その美は鹿苑寺の遺構に偲ぶことができます

北山鹿苑寺絵図

 日本の庭園の様式が確立するのは平安時代です。寝殿前の白砂の向こうには、広大な池が設けられ、ここに舟を浮かべて詩歌管弦の宴を催しました。熟成した貴族の文化と山紫水明の京都の地形が風雅を極めた池泉の庭を生み出したのです。このような水景へのこだわりは、海神を祀る神池・神島を築いた古代から受け継いできたものであり、これが大陸からもたらされた庭園文化と交響しながら、やがて日本独自の庭園美として結実するわけです。それにしても往時の人々の水の意匠の巧みさには感嘆します。その光を愛で、その音に憩う、優美な感受性は日本ならではのものです。もう一つの特徴は自然の美しさを活かす造形です。精魂を込めて創り上げたものを、あらためて天地の下で和合させていく。これは茶道や華道などにも通じる精神性、和の美意識だと思います。

 鎌倉・室町時代の日本を代表する邸宅は西園寺家の北山第と足利義満の北山殿であり、その庭園の遺構の一部は鹿苑寺(金閣寺)に散見することができます。朝廷の実権を握り、栄華を誇った公家の西園寺公経は、衣笠山の麓に氏寺として西園寺の建立を思い立ち、そこに壮大な別業も築きます。落慶供養は元仁元年(1224年)に行われ、翌年に訪れた藤原定家は四十五尺の高さを持つ滝の荘厳な趣、澄み切った池水の珠玉の景観などに魅せられ、その感慨を『明月記』に綴っています。
 やがて西園寺家は衰退し、西園寺・北山第も荒廃して行きます。そして半世紀の時を経た応永4年(1397年)に室町幕府の三代将軍足利義満が、この地に北山殿を建てたのです。芸術に対する造詣が深く、作庭についても卓越した審美眼を持っていた義満は、かねてより平安京の庭園に思いを馳せており、西園寺・北山第の池泉の庭に、その壮麗な姿を見出したのだと思います。平安時代に競うようにして数多く造られた寝殿造の池泉庭は、やがて時の流れの中に埋もれて行きましたが、その美の面影を私たちは鹿苑寺の庭園の遺構に偲ぶことができるのです(図1参照)。

発見された北山第に関する文字資料で不動明王や石室の歴史を探ることができます

不動堂実測図(平面図)

 平成15年(2003年)に北山第に関する貴重な発見がありました。(財)京都市埋蔵文化財研究所は、鹿苑寺境内で平成元年(1989年)から継続的に発掘調査を実施しており、当時は第10次調査の最中で私は調査課長でした。10月9日の午後に山木執事長が現場へお越しになって「不動堂の石室内に文字らしい痕跡があるように思います。拓本を取ってくれませんか」とおっしゃったのです。このご依頼が発見の第一歩になりました。不動堂は境内の北東の高台に位置し、本尊を安置する石室と木造瓦葺き建物の礼堂から成っています(図2参照)。

 石室内の寸法は幅約180センチ、奥行き約230センチで正面奥に石不動像が西向きに置かれています。石室の最大の特徴は壁面や天井に多用されている長さ100センチ以上の緑石片岩による構築です。この石は水に濡れると美しい緑色に変化するために、平安時代から貴族たちに好まれて庭園などに用いられました。ただし、京都盆地や周辺部では採集できない貴重な石材です。石室に用いられた緑石片岩は歴史的な背景から四国の伊予から運び込まれたものだと思われます(図3参照)。
 現時点で文字資料が読み取れる石は、入口間近の北壁と南壁の各一石だけで、その大半は北壁にあり、いずれも石の地肌に鋭利な工具で線刻されています。年号・年紀に関するものは「庚永元年暮秋下旬→康永元年(1342)九月下旬」、「貞和二五廿四→貞和二年(1346)五月二十四日」、「文和二年拾月十七日→文和二年(1353)十月十七日」、「應永十二年四月十九日→応永十二年 (1405)四月十九日」などで、応永十二年と康永元年までには63年の時が経過しています(図4参照)。これらの文字資料によって不動明王や石室の歴史が南北朝の時代まで遡る可能性が濃厚になりました。そして、不動堂の北側には高さ約10メートルの断崖があり、そこに登ると滝口や水が流れていたことを思わせる溝状の痕跡を確かめることができます。これが藤原定家が『明月記』に残した四十五尺の荘厳な滝跡であると指摘されています。
 私は調査成果の一部を述べた『鹿苑寺と西園寺』鹿苑寺篇(共著):思文閣出版に、石室が創建された当時の景観を次のように復元して記しました。「石室が成立したのはこの地がまだ西園寺家の北山第の頃で、不動山の山肌を穿って本尊を安置するための石室を構築した。石室に使用する石材は、遠方からわざわざ取り寄せた緑色片石であった。内部の様子は、今とさほど変わっていなかったと想像される。そして、本尊をはじめ今はその姿を見ることができない二童子像や狛犬、それに本尊の光背・扉なども皆他国からわざわざ運び込ませた石材で制作されたものであった。
 石室の入口には、石扉によって普段は固く閉ざされていたと思われる。さらに、石室前面には滝が設けられ不動明王と滝が一体化する演出がなされ、その周囲は、滝から流れ落ちる水しぶきが舞い上がっていたことであろう」。
 石室の調査がさらに進み、さらに多くの史実が明らかになることを心から望んでいます。

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