自由な賓主互換――上田閑照の禅哲学からみた対話の核心

開催日時 2015年7月22日(水)15:00〜18:00
開催場所 京都産業大学 第二研究室棟 会議室
報告者 ブレット・デービス(Bret Davis)(ロヨラ・メリーランド大学教授)

概要

東西対話に向けて日本哲学は何を寄与できるか

 異なる文化を背景にしている人が、諸々の事柄についての真の対話を行うためには、原理的に先ず、「対話」そのものの真相について共に考えなければならない。すなわち<対話についての対話>が必要である。
 本報告では、上田閑照の思想をもとに、対話の真相を追求したい。

東洋と西洋の間を掘る <禅・哲学>

 上田の<禅・哲学>の目的は、「東洋と西洋の間を掘る」ことであり、伝統的な日本文化が西洋文化との衝突や統合を含めた現代日本文化から出発し、外へ向かって西洋の伝統と対話しながらも禅の伝統の底をくぐり抜け、西田の表現を借りて言えば、「内在的超越」を徹底することにあるのではないか。

対話の出発点――互いに無我へと「おじぎ」すること

 上田によると、対話の本質は、禅の言葉でいえば、自由な「賓主互換(ひんじゅごかん)」にある。互いに自由に真なる主となり、また真なる賓となることを可能にするのは、交わす言葉の背後にある、またその源でもある深い「沈黙」へと「おじぎ」し、その根源的な自他不二の次元から再び自他相対の次元へと立ち上がる、という循環的な運動である、上田は論じる。

対話の核心――自由な賓主互換

 上田によれば、本来の自己とは、「自己固執」と「自己喪失」といった両極端にひそんでいる二つの落とし穴に陥らない、自己否定と自己肯定との間を絶えず循環する動きなのである。
 「主の自由な交替が対話の核心」であり、「役割のこのような自由な交替が、対話としていわゆる話がかみ合うことの一番の基礎である」と上田は述べている。

二重なる自己同士の出会い

 本来の自己の運動は、自他の間に水平に行われるのみでなく、そもそもはそれを可能にしている「自己が無に、無が自己に」という垂直な運動である。それは有限的・相対的なものでありながらも、無限な・絶対的な場所へと及ぶものでもある。従って、動的な本来の自己は本質的に二重なるものなのである。

世界変換を共に遊戯する連句

 連句がそうであるように、真の対話は、どちらかの参加者の発言によって一方的に備えた意味世界において行われるのではなく、参加者の間で行われる「諸世界‐変換‐遊戯」の出来事なのである。そしてその遊戯を可能にするのは、共に「言葉から出て言葉に出る」ことである。

沈黙における対話

 真の対話は、共に「言葉から出て言葉に出る」ことを絶えず要求する。というのも、真の対話は言葉においてのみ行われるのではない。究極には、言葉を虚化し、また再び言葉を意味化する「虚空」においてのみ真の対話が可能である。すなわち、根源的な沈黙はただ言葉を否定するものではなく、真の言葉、真の対話を可能にするものでもある。

共に「言葉から出て言葉に出る」異文化間対話

 以上をまとめると、真の対話とは、深い沈黙しか届かない絶対無あるいは虚空において、共に「言葉から出て言葉に出る」という出来事であり、またそれは自由な賓主互換として展開されるものである、ということである。
 我々は異文化間の出会い・交流においてこそ、深い沈黙しか届かない普遍な場所へと繰り返し「おじぎ」し、また繰り返し立ち上がって「彼一語我一語」と片言でも交わしながら、意味世界の変換を共に経験し、自由な賓主互換としての真の対話を実現できる道を歩んでいけるのではないだろうか。

※デービス教授はこれまでにも世界問題研究所における国際セミナーにおいて報告を行っている。その国際セミナー『現代日本の「世界」理解の問題‐日本思想(京都学派)の可能性』については
http://www.kyoto-su.ac.jp/project/kikou/sekaimondai/kenkyu/20130329_kenkyu.htmlを参照。


  • 発表の様子(デービス教授)

  • 質疑の様子
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