野々口 敦子 さん

略歴

1987年4月 外国語学部英米語学科 入学
1992年3月 卒業

新入生の皆さんへのメッセージ

新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。

私が京都産業大学外国語学部英米語学科に入学したのは今から30年近く前のことです。当時、不安と緊張感はあったものの、それ以上に夢と希望に満ち溢れていたように記憶しています。その頃はまだ日本の製造業が世界をリードし、日本経済が頂点を極めていた頃だったからかも知れません。卒業時にはバブル経済の崩壊でそれ迄ほどの売り手市場ではなかったものの、希望していた一部上場企業(メーカー)にも就職できたのです。ただ、就職する企業のネームバリューやイメージに拘り、本質を見て企業を選ばなかったので、私は就職後大きな挫折を味わいました。その意味では、厳しい就職戦線を闘わなければいけない皆さんは、大学4年間に自分自身、自分のやりたいこと、自分の将来と企業について深く考える機会を望むと望まざるとに関わらず与えられているのではないでしょうか。

私は、現在、民間企業に属し、日本政府の政府開発援(ODA)にかかる技術協力事業のコンサルティング業務に従事しています。具体的には、開発途上国で社会文化的な規範やイデオロギーを理由に、あらゆる面で差別を受け、資源やサービスへのアクセスや意思決定権が限られている女性のエンパワメントを促す政策提言等の業務を中心に行っています。大学卒業後入社した企業で自分の思い描いていた仕事をすることができず、悶々とする日々の中で、自分の語学力を活かしつつ社会に貢献でき、一生続けていける仕事は何だろうかと考え続けました。2年余の年月をかけて私が見つけた新しい道は、国際協力という世界でした。大学時代には考えたこともなかった未知の世界でした。

開発途上国でJICA専門家・コンサルタントとして携わった仕事を通して撮影した写真

カンボジアにJICA専門家として駐在中、女性省職員を対象とした研修を実施(2003年)
エチオピア・アムハラ州の農村でJICA支援を受け果樹栽培で力を発揮する女性農民とその夫とともに(2012年2月)
パキスタン・シンド州で女子教育の促進に取り組む政府職員、生徒の母親たちとともに(2012年9月)
JICAが支援しパキスタン・パンジャブ州で実施のノンフォーマル教育の青空教室で教える女性教員とともに(2014年11月)
JICAの有償資金協力を受け、インド南部の農村で森林保全・生計向上に取り組む女性組織へのインタビューのあと(2014年12月)
インドで多発する女性に対する性暴力から身を守る方策を考えるデリーの高校生たちに聞く(2014年12月)

私が、大学4年間、その後の紆余曲折を経て現在のキャリアを積むまでの過程を振り返って、重要だったと思うことが2点あります。それは「目標を決めて、その達成のために戦略と計画を立てること」、そして「強く願うこと」です。この2点については、後ほど詳しく説明しますが、私はこの2点を大学時代にやらなかった、やれなかったので、そのツケを就職後に払うことになりました。私が今のキャリアを始めたのは25才の時だったので出遅れは否めません。それでも、あの時自分と向き合って自分の将来を真剣に考えたからこそ、今の自分があるのだとも思っています。その意味ではやり直しは効きます。

私は、大学時代、将来の夢を明確に持っていませんでした。ただ、中学、高校と英語が好きだったので、将来は英語を使う職業に就きたいと漠然と考えていました。そのためには英語が話せるようになりたい、留学したいと思っていました。留学費用を捻出するためアルバイトに明け暮れ、念願かなって3回生が終わった後、私は大学を休学してアメリカに留学をしました。1年間の留学を経て、自分ではそれなりに頑張って語学力を習得したという自負があったので、就職活動の中で面接を受けた企業の面接官の殆どからあまり評価されなかったのは結構な衝撃でした。

就職活動中、また就職後に受けたそれ以上の衝撃は、企業や社会による女性差別でした。私が就職活動を行ったのは1991年、男女機会均等法が施行されて6年の時期でしたが、企業や人々の考えはまだまだその法律に追いつけていなかったのだと思います。その頃は、女性社員に限って「総合職」と「一般職」の区別があり、私は「総合職」というカテゴリーで就職し、給与面等では男女平等の待遇を受けたのですが、仕事の内容面ではそうとは言えませんでした。能力ではなく、性別で仕事内容を決められていることに納得できなかったのです。この企業で仕事を続けても自分には一生チャンスは来ない、働き続けるに値する仕事ではないとすぐに気づきました。

それから2年余の年月をかけて、私が目標に掲げたのは「青年海外協力隊」でした。その頃、国連機関に勤める日本人の経験談をまとめた本を本屋で見つけ、夢中で読みました。その本には、その人たちがどのように国際公務員のキャリアを掴んだかが詳細に書いてありました。多くは青年海外協力隊の経験者で、その後欧米の大学院で専門分野の修士号を取得して、国際公務員になったという経歴でした。これだ!と思い、その日から、どうしたら協力隊員になれるか、過去の試験問題を徹底研究し、元協力隊員の人からも適性検査や面接のコツを聞き、合格するための戦略と対策を練る日々でした。そうした努力に加えて、私がやったことがあります。それは、寝ても覚めても、そして仕事中もとにかく強く願ったということです。協力隊に行きたい、絶対行く、と。その当時競争率40倍の難関を破って合格できたのは未だに奇跡としか思えませんが、最後は私の強い願いが面接官に通じだのだと思います。

私が青年海外協力隊員として赴任したのはネパールです。1995年4月から1997年7月までの2年3ヶ月の任期中、私は、ポカラ近くの中間山地の農村で、JICA(国際協力機構)が実施する住民参加型のコミュニティ開発事業のファシリテーターとして活動しました。電気も水道もない農村での生活は、2年間という期限が決まっていたから出来たことではありましたが、あの村での経験が私の原点であり、一生の宝物です。ネパールの農村に深く根付く伝統文化、社会、宗教に基づく規範や慣習によって、女性や低位カーストの人たちが虐げられ、不当な扱いを受けているのを目の当たりにして、自分の体験も重なって、私は「開発とジェンダー」という分野に強い関心を持ち、帰国後アメリカの大学院で理論を学び、仕事にし、今の私に繋がっています。

1995年4月から1997年3月まで青年海外協力隊員として駐在したネパール・カスキ郡デウラリ村にて

協力隊員として活動・居住していたネパール・カスキ郡の山間村
(1995年4月〜1997年7月)
土砂災害の予防のために植林を実施(1996年頃撮影)
生計向上のためのヤギ飼育事業でワクチン接種の研修を実施
(1996年頃撮影)
村の女性自らが講師となって他の住民に公衆衛生の基本を伝える研修を実施(1996年頃撮影)
学校教育を受けていない村の女性を対象に識字教室を実施
(1997年頃撮影)
「村落振興・森林保全プロジェクト」に携わった協力隊員、
JICA専門家、ネパール人スタッフ(1997年頃撮影)
大学時代、最初にしたアメリカ留学は、何の目的も目標もなく、ただ英語が話せるようになりたい一心での留学でした。ネパールから帰国後の1998年8月から2年弱、そして2005年8月から6年弱、私はアメリカに留学しました。これらの留学は、それぞれ修士号、博士号を取得するための留学でした。修士号取得のための留学は、特に就職するために行った留学でした。国連機関だけでなく、日本の国際協力のコンサルティング業界でも修士号の取得は必須条件に限りなく近い条件です。学位に加えて経験がものをいう世界ではありますが、学位がなければスタートラインにも立てないのが現実です。国際協力に限らずどんな業界でも、語学や学位はキャリアを積むためのツールであって、目的ではないでしょう。

米国ペンシルバニア州立大学に留学中(2006年5月)に調査を実施したスリランカ南西部の津波被災漁村にて

スリランカ西南部津波被災漁村での調査に参加した大学院の指導教官と学生たちとともに(2006年5月)
2004年12月26日発生の津波で破壊された列車(2006年5月撮影)
2004年12月26日発生の津波で破壊された西南部海岸沿いのホテル
(2006年5月撮影)
津波に被災したスリランカ西南部漁村の女性たちと村の防災計画を作成(2006年5月)
スリランカ西南部被災漁村での調査結果から効果的な支援策を考える(2006年5月)
スリランカ南部の漁業風景
(2006年5月撮影)
私は、大学時代、ずっと語学を目的に勉強し、留学もしました。そして、自分のやりたいことを見つけることもできませんでした。今から思えば後悔の多かった大学時代です。それでも、かけがえのない友人、先生方に巡り会い、英米語学科や一般教養の授業を通して新しい知識を得て、高校までとは違う私自身が形成されたのは、まぎれもなく大学時代です。私を大きく成長させてくれた京都産業大学・外国語学部・英米語学科には感謝の気持ちでいっぱいです。新入生の皆さん、これから始まる4年間、将来に向けて悔いの残らない大学生活を送って下さい。

2004年12月から2005年3月まで、女子教育の現況を調査した中東イエメンにて

イエメンの首都サナアのオールド・サナアの風景(2004年12月)
イエメン政府教育省幹部、ドイツGTZの専門家とともに(2004年12月)
イエメン・タイズ州でご馳走になった食事(2004年12月)
イエメン・タイズ州都市部の女子学生、女性教員へのインタビューのあと(2004年12月)
イエメン・タイズ州農村部の小学校で識字教室に参加する女性たちとともに(2004年12月)
イエメン・タイズ州の山岳地で遠く離れた水源地から水を運ぶ女性たち(2004年12月)
イエメン・タイズ州沿岸地域の学校の子どもたちと教員(上)、紅海に面する漁村にて(下)(2005年12月)
イエメン・タイズ州の山岳地帯の青空教室の子どもたちと教員
(2005年1月)
イエメン・タイズ州で女子教育促進を目的としてJICAが支援する新規事業の内容を関係者間で話し合う
(2005年1月)

2015年8月と11月に復興・防災状況を調査したフィリピン・レイテ島台風ハイヤン被災地にて

2013年11月8日台風ハイヤンが上陸したフィリピン・レイテ島の風景(2015年7月撮影)
フィリピン・レイテ島タクロバン市に建てられた仮設住宅にて
(2015年7月)
台風ハイヤンの被害を受けたレイテ島トロサの女性たちから復興、防災の状況を聞く(2015年7月)
フィリピン・レイテ島パロの台風ハイヤン被災女性たちが住民参加型で作成した村のハザード・マップ
(2015年7月)
JICAの支援を受けて生計向上のためヌードルづくりに取り組むレイテ島トロサの被災女性たち
(2015年7月)
JICA支援を受けて魚の加工品製造に取り組むレイテ島タナウアンの被災女性たちとともに(2015年7月)

2015年8月と10月に、復興・防災状況を調査したスリランカ津波被災地&土砂災害頻発地域、及び洪水頻発地域にて

スリランカ東部で津波(2004年12月26日発生)により自宅を失った住民たちに対し日本政府が支援した復興住宅(2015年8月撮影)
津波の被害を受けたスリランカ東部の女性たちから被災、復興の体験談を聞く(2015年8月)
JICAの津波復興事業で支援を受けた女性たちから生計の復興状況について話を聞いたあとで(2015年8月)
スリランカ・ラトナプラ県の土砂災害頻発地域でJICAが支援して作成された村のハザード・マップ(上)、村レベルで組織化された住民による防災委員会メンバーとともに(下)
(2015年8月)
スリランカ・バティカロア県の洪水頻発地域でコミュニティ・ベースの防災活動を聞く(2015年10月)
スリランカ・バティカロア県農村部の洪水頻発地域の住民が国際NGO(Oxfam)の支援を受けて防災目的で作った貯め池(2015年10月)
スリランカ・バティカロア県農村部の洪水頻発地域の村で組織化された防災委員会に参加する女性たちとともに
(2015年10月)

2016年2月に畜産・農業の現況調査を実施したパキスタン・KP州にて

畜産業で成功しているパキスタン・KP州ハリプール郡の女性農民とハリプール郡畜産局の獣医師
(2016年2月)
パキスタン・KP州ハリプール郡で成功している女性農民が育てる水牛(2016年2月)
牛乳をふるまってくれる女性農民(2016年2月)
パキスタン・KP州ハリプール郡の農村にて、ローカルNGOの支援を受けて果樹栽培に取り組む女性農民
(2016年2月)
パキスタン・KP州ハリプール郡でローカルNGOの支援を受けて力を発揮する女性農民とその家族とともに
(2016年2月)
パキスタン・KP州でカリーフ期(10〜4月)に栽培される小麦畑
(2016年2月)
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