ハプスブルク帝国とヨーロッパ 2024.04.23

ヴェルサイユの皇帝一家

こちらの肖像画(図1)に見覚えのある人は多いでしょう(最近では、なぜかソーセージのCMにも使われていました)

(図1)

これは、ヨーロッパの歴史に大きな足跡を残したハプスブルク家の人々を描いた1755年の作品で、現在ヴェルサイユ宮殿が所有しています。向かって左端にいる男性は、神聖ローマ皇帝フランツ一世。右にいるのは彼の妻で、この時期にハプスブルク家の当主だったマリア・テレジア。そして中央下部で豪華なベビーチェアにおさまっている幼子が、ヴェルサイユからギロチンへという劇的な運命の変転で知られる、後年のフランス王妃マリ・アントワネットです。

しかし、なぜこの有名な肖像画がフランスのヴェルサイユ宮殿にあるのでしょう。その理由は、この時期にハプスブルク帝国とフランスが、250年の長きにわたって続いた敵対関係を解消し、同盟を結んだことにあります。
ただ、それ以前の敵対していた時代にも、両国には一定の交流がありました。たとえば、17世紀のフランスを舞台にしたアレクサンドル・デュマの小説『三銃士』には、主人公ダルタニャンが忠義を尽くす相手としてアンヌ・ドートリッシュ(国王ルイ一三世の妃、「太陽王」ルイ一四世の母)が登場しますが、「ドートリッシュ」とはフランス語で「オーストリアの」という意味。実はアンヌはハプスブルク家の出身で、この一族が本領とするオーストリアから、このように呼ばれていたのです。もっとも、彼女自身はオーストリアの出身ではありません。ハプスブルク家は当時スペインを支配しており、アンヌは時のスペイン国王フェリーペ三世の娘、いわゆるスペイン系ハプスブルク家の出だったのでした。

ハプスブルク帝国

もう頭がこんがらがりそうな人もいるでしょう。しかしここで垣間見たように、ハプスブルク家は、直接支配することのなかった国や地域も含め、ヨーロッパのほぼ全域(さらには中南米)と深い関わりを持ち、その歴史・社会・文化に大きな影響を与えた一族でした。詳しく知りたい人は、拙著『ハプスブルク帝国』(講談社現代新書、2017年)および『マリア・テレジアとハプスブルク帝国』(創元社、2023年)をご参照ください(図2)。
 ただハプスブルク家にとって、ヨーロッパ各地に幅広く存在した領土の統治は、非常に困難なものでした。傘下の諸国・諸地域が有する固有の特質や事情に細かく配慮しなければ、反発を招くことが確実だったからです。実際、スイスやオランダは、このような反発から次第にハプスブルク家と対立を深め、独立へと至りました。
こうした経験を重ねる中で、ハプスブルク家は徐々に中央集権化を手控え、自国の複合的な国制を前提として統治するようになります。一八世紀ハプスブルク帝国のある指導的な政治家はこう述べました。「[ハプスブルク帝国は]風俗習慣、言語、法がまったく異なった、多くの分散した国々から成っている。ある国で適切で有益なことは、別の国では不適切で有害となる。同じ法や権利を導入しようとすることは、明らかに不可能である」。

(図2)

(図3)

複合君主政国家

ただ、このように複合的な国制を持つことは、ハプスブルク帝国だけでなく、近世・近代のヨーロッパ諸国に少なからず見られたことでした。これを近年の歴史家は「複合(君主政)国家」と呼び、近世ヨーロッパを理解するキーポイントの一つと考えています。今日ヨーロッパで連邦制をとる国が多いのは、このような歴史経緯に由来する場合がほとんどです。 たとえばイギリスは、その正式名称「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」が示唆するように、イングランド、スコットランド、北アイルランド、ウェールズの四国によって構成されています。そしてその国旗は、イングランドの聖ジョージ旗・スコットランドの聖アンドリュー旗・アイルランドの聖パトリック旗を重ね合わせたものです(図3)。これらは、イギリスが今なお複合君主政国家であり続けていることを示しています。
また、スペインの国歌には、歌詞がありません(ですから「国曲」という方が正確かもしれませんね)。スペインを構成する多種多様な地域・民族がみな納得して受け入れることのできる歌詞を、今日まで作れないでいるためです。サッカーのワールドカップやオリンピックなどでスペインの国歌が「斉奏」される際、選手たちの(動かない)口元に注目してみてください。

多文化共生への道

自国が多種多様な地域・民族からなる複合君主政国家であることを理解していたハプスブルク家の人々は、支配下にある諸地域の言語を学ぶことに力を入れ、ほとんどがマルチリンガルとなりました(表4)。もっともハプスブルク家は、カトリック信仰・(男性)エリート主義・パターナリズムが混合した独特の支配理念から、自由化や民主化に消極的で、国民をあくまで「臣民」とみなし、上から統治する姿勢を最後まで変えようとしませんでした。ですから、その支配を安易に賛美することはできません。しかし、画一化を控え、地域や民族の壁を越えようとしたその試みには、今日でも参考になることがあると思います。 現実に存在する多様性に向き合い、異なる言語や文化を積極的に学ぶことで理解を深め、多文化共生への道を模索する。こうした異文化コミュニケーション能力の重要性は、古今東西変わりません。私たち京都産業大学外国語学部もまた、個々の学科・専攻が言語別に孤立することなく、相互に連帯して学び合うことを重視しています。私も担当授業の一つである研究演習(いわゆるゼミ)において、「ヨーロッパの歴史・社会・文化」をテーマに掲げ、使用テキストの言語をあえて日本語とし、所属するドイツ語専攻以外からも学生を受け入れています。自分が興味関心を抱く言語を基軸としつつ、英語もしっかり学び、もちろん日本語も使って、様々な事柄を幅広く知る。このような学びに興味を持つ人々と出会うことができたら、これほど嬉しいことはありません。

近世ハプスブルク家君主の使用可能言語(表4)

  レーオポルト1世 ヨーゼフ1世 カール6世 マリア・テレジア ヨーゼフ2世
スペイン語 ×
イタリア語
フランス語
ドイツ語
ラテン語
カタルーニャ語 × × × ×
チェコ語 × ×
ハンガリー語 × ×

出典:Wuzella, W.– M., Untersuchungen zu Mehrsprachigkeit und Sprachgebrauch am Wiener
Kaiserhof zwischen 1658 und 1780. in: Opera Historica. 10 (2003), 420.

岩﨑 周一 教授
外国語学部 ヨーロッパ言語学科 ドイツ語専攻

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