グッド・トライ賞

経営学部 1年次生 中田 美麗

作品概要

 高校三年生の秋、私はある大学の不合格通知を手にし、途方に暮れていた。私は、幼少期から空手を続けている。小学三年生で全日本大会に出場、準優勝の成績を残してから、小学四年生で全日本大会優勝、それから小学五年生、六年生、中学生と連覇した。高校生に入ってからは、大人の人も含む一般の部の全関西大会、全関東大会と優勝の成績をおさめた。そう私は、某大学のスポーツ公募推薦で合格するはずであったのだ。

 今でもハッキリと覚えている。九月十一日、私に届いたのは長形3号サイズの封筒であったのだ。封筒を見た瞬間、嫌な予感はしていた。封筒が小さすぎたのだ。合格通知の封筒は、入学手続きや入学金の案内などの書類が入っているため、A4サイズの封筒であると聞いていたからだ。

 高校に入学し、少し経った頃からずっとその大学に憧れていた。スポーツ公募推薦をゴールに全力で走って来た。しかし九月の時点で小論文の力しか持っていなかった私は、早急に次の選択肢を考えなければならなかった。

 京都の大学に憧れていたこともあり、たまたま京都産業大学のオープンキャンパスに立ち寄ってみた。空気の綺麗な、四季を感じることの出来る、落ち着いたキャンパスだと感じた。後日、手書きの「オープンキャンパスに来てくれてありがとう。受験は大変だけど、大学生になれば、自分のしたいことにどんどんチャレンジすることが出来るから!頑張ってね」という手書きのハガキを受け取った次の瞬間、京都産業大学を受験しようと決心した。それから、寝る間も惜しんで勉強した。幼稚園から高校生までエスカレーターで進学してきた私にとって、今までで一番苦しく辛い時間となった。

 それから四月、晴れて京都産業大学の生徒となる事ができた訳だが、私の大学生活はそう簡単なものではなかった。前にも述べたが、私は幼少期から高校生までずっとエスカレーター式で進学してきた。学年が上がっても、中学、高校と進学しても知っている人が必ずクラスにいたのだ。

 そして、私は失敗してしまう。初めての事態であった。本当に、知っている人がいない。まるで違う世界に放り込まれたようだった。「自分はどう思われているのだろう。」「迷惑だとは思われないか。」常に気を遣いすぎて、会話がぎこちなくなってしまう。そして、七百人以上もいる経営学部。サークルやクラスが同じであったり、自分から話しかけていかなければ、人とのつながりの輪は広がらない。さらに、空手の稽古に費やす時間、アルバイトの時間、二時間かかる通学時間を考慮すると、入ることの出来るサークルやクラブが限られてしまった。そして、とうとう何にも入れずに春学期がスタートしてしまった。様々な価値観を持っている人、それぞれ違う出身地の人、色々な人と知り合い、充実した大学生活を送りたいと願っていた。しかし、自分の人見知りや、臆病さなどから、何事にも消極的になってしまった。「こうしてみようか。いや、でも周りの人にどう思われるのだろう。」こうして、大学生活のスタートを失敗に終わらせてしまった。

 五月に入り、後悔と共に悩む日々が続いた。朝、こんなに早起きして大学に行くことが憂鬱だとも思った。「このままではダメなのであろう。」「でも、一体自分に何が出来るというのだ。」そんな中、出町柳から大学までのバスの中から、本当に綺麗な賀茂川の景色を見た。その瞬間、「私が決めた、私が死に物狂いで勉強して入学した、私自身が行きたいと決意した、憧れの京都の大学ではないのか。」と再確認した。自分次第でこれから、いくらでも変わって行くのではないか。そして私は、とにかく色々な事にチャレンジすることに決めた。自分自身で、自分一人であっても様々なことに挑戦してみよう、と決めた。

 まず、夏休みには「ふるさとワークステイin福井」のボランティアに参加した。知り合いもなく、三泊四日を宿舎で共同生活することを思うと不安に押しつぶされそうであった。しかし、今では本当に参加して良かったと思っている。また、自発的に色々なことを行動する自分にも驚いた。もう一つは、国際交流センターで募集がかかっていた外国人留学生のチューターに応募した。現在は、留学生にたくさんの刺激を貰いながら日々を送っている。

 いま私は思う。四月、大学生活のスタートを失敗したことにより、私は他の人よりも本当にたくさんの良い経験が出来たと。自分自身で決心し、自分自身で選択・道を切り開いていく。あの四月の自分がいたからこそ、このサギタリウスチャレンジにもエントリーしたのであろう。だがこれからもチャレンジして行けば、必ず壁にぶつかったり失敗してしまうだろう。しかし私は知っている。「失敗は自分を成長させることの出来る最大のチャンス」である事を。

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