入賞

「住みよい街と心のありよう」

経営学部 1年次生 岩城 颯将

審査員講評

 不便かもしれないが自然豊かな故郷で身近な親しい人々と楽しく暮らしていた高校生までの自分、親元を離れて京都で一人暮らしを始めて不安でいっぱいで人間関係の重要性を痛感した大学入学直後の自分、都市が持つ利便性がもたらす快適さに気付いた自分、大学での学びによって愛する故郷に忍び寄る危機に気付きその解決策について考えを巡らせる自分、というように多感な青年期の若者が一人の大人として成長していくそれぞれの過程における心境の変化を率直につづった好エッセイである。ふるさと創生、地方再生と言葉は変わってきているが、少子高齢化や一極集中の課題を抱える日本が数十年来にわたって取り組んではきたもののいまだ具体的な解決策を示せていない難問について、将来を担う若者である筆者が真摯に考え、自身の行動によって自身が住みよい街を創造しようとする意欲をぜひとも実現してほしいものである。

作品内容

「住みよい街と心のありよう」岩城 颯将

 私の出身は徳島県三好市三野町で、ここがたいそう自然の豊かなところではあるのだが、人口は京都産業大学の学生の半分以下でさらに人口の減少と急激な高齢化が進んでいる。コンビニは二軒しか無くスーパーも同様であり、その他の主要な店舗を合わせても両手の指ほども思いつかない。あげく公共交通機関である汽車は約1時間に一本のペースでしか走っていない。ただでさえ不便だと感じるのに京都と比べるとそれが一層際立つ。

 これほどの土地ではあるが私は住んでいてとても楽しかった。それは親しい人物が十分にいたからだ。毎日家族や友人と話し、その他親しい人々が沢山いた。私はギターを弾いていて、音楽仲間と集まって遊ぶのも楽しかったし、家の近くを流れる吉野川や山から流れる谷川へ出かけるのも好きだった。何かモノを買うのには不便であるけどその他住みよいと感じ、楽しいと感じるに必要な要素はそろっていた。将来も徳島に住みたいと思っていた。

 そして私は大学進学にあたりこの京都に来た。しかし大学生活が始まったばかりの頃、私はホームシックにかかり物寂しさを感じる日々を送っていた。自分が望んで住み始めた土地であるにもかかわらずだ。その時にちょうどこの住みやすい、住んでいたい土地というものを考えていた。

 高校1年の夏休みの時に京都観光にきてから自分の胸の中にはできることなら京都に住んでみたいという思いがあった。理由はその時河原町から清水寺までを自分の足で歩いてみて、なんとなく歩くのが楽しいと感じたからだ。人も多かったが、街並みを観て歩くことがとても楽しく苦にならなかった。京都の街並みを観ようと思えばいつでも見られる人は何を感じて歩くのか、また自分がその立場になったらどう感じるのかが気になった。観光地以外が楽しめる街がある京都は住んでも楽しそうだと思っていた。

 しかしいざ住み始めてみるとホームシックにかかった。どうしてホームシックにかかったのかを考えてみると京都に面と向かって話すことのできる人がいないからであるという結論に至った。つまり、住む場所がどうかではなく話せる人がいるかどうかは住む場所の心理的な環境に関わってくるということだ。試しに河原町から清水寺まで歩いてみたが、楽しいとは感じたものの心の寂しさは付き纏っていた。そうしてそれまでは住む場所を考える時にあまり考慮してなかった人間関係の重要さを思い知った。しばらくして、気軽に話せる友人ができてからはホームシックを克服し、高校生の時に思い描いていた新鮮な楽しさを感じて過ごせるようになった。

 こうした住む土地での人間関係や思い出が住みやすいと感じる大きな要因になる。仮に町がとても栄えていて交通機関も何不自由ない町があったとしても人間関係がうまくいかなければたちまち住みにくい土地となり、嫌な思い出しか生まれないだろう。逆にある程度の利便性しか持たない町であってもいい人間関係が築かれていれば暮らしの不便な点については享受できる。
 これまでは人間関係や思い出を主に考えていたが、やはり町が利便性に富んでいることに越したことがないのは事実である。充実した交通機関や多種多様の店舗があるということは経済の発展を促し、さらに住みよい土地へと成長するのに必要なことである。その点において京都市はこれを大いに満たしているといえる。地下鉄、バス、タクシーなど充実した交通機関、四条河原町を中心とした栄える商店街の存在、加えて世界に売り出す価値のある観光地も備えている。京都での生活に慣れて実家に帰るとやはり交通機関と店舗の少なさに不便を覚える。よい人間関係が築かれていることを前提としたならば京都は住みたいと思う土地の理想形の一つだと言える。
 これまでで言えることはいい人間関係の上に町の利便性が高ければ高いほど住みよい土地であるということである。これに付け加えて住みたいと思う町の要因は生活するのにかかるお金のことだ。

 お金は生きていくうえで必要不可欠なものである。お金がすべてとは言わないが、お金がないと生きていけないのは当たり前のことである。利便性に富んだ町はやはり税金も高いだろう。加えて土地の値段も高いだろう。その他諸費用を考えてみればいくら稼ぎがあっても苦しいものである。できるだけ住むのにかかるコストを抑えて利便性に富む町に住みたいと思ってもそううまくはいかない。それができるのであれば私だけならず誰しもが住みたいと思うだろう。要は住みたい町の理想形はあれどある程度の折り合いをつけなければいけないということだ。お金のことが絡んでくるこの問題は将来就職して自分で生きるために必要な額のお金を稼ぎだしてからより真剣に考えさせられるだろう。

 結論として住みたい、住みやすい土地を考える時に私が重要だと考える要因はよい人間関係、利便性、お金とその土地での思い出で、このうち最も重要なものは人間関係である。そう考える私は大学で学ぶ組織論やリーダーシップ論といった人間関係にまつわる分野をとても面白く感じる。それらはよい人間関係の築きかたを理論化している。
 そして私は将来地元での就職を考えている。慣れ親しんだ故郷で仕事をしたいからだ。しかし秋学期に選択した公共経営概論という科目で配られた一枚の資料をみて私は愕然とした。そこには日本全国で将来消滅する可能性のある市町村ワースト50が載っていたのだが、故郷徳島県三好市は45位であった。それまではなんとなく「田舎だからおじいちゃんおばあちゃんがちょっと多くて人が少ないのも仕方ないな」と考えていたがこうも具体的に数字がでてくると少し悲しくなった。ラインマーカーで線まで引いてしまった。「徳島県からは毎年5000人も人口減少している」という掲示をどこかでみてはいたものの心のどこかではそれを信じずにいた。今ではそれも信じた。住みたい町が消えてしまう恐れがあるのだ。

 住みたい町を考えるにあたって、考えるべき要素をもう一つ付け加えるとするならばそれはその町があとどのくらい存在するのかということだ。いざ住み始めてすぐなくなってしまうのではいけない。さらに人のいない町というのは人間関係どうこうではなくなってしまう。
 よって私は住みたい町の確保のために自分に何ができるかを考えた。まずなぜ消滅するのかを考えたのだが、やはり人が少ないということが第一だと思った。さらに言えば若い人が少ないことが町の将来性を消してしまっている。そこで私は音楽を通じて若者を町に呼ぶことができるのではないだろうかと考えた。徳島県は阿波踊りが有名だ。夏の一時期だけはたくさんの人が徳島を訪れる。そこからヒントを得てその考えに至った。今の時代は生で音楽を聴くことが難しくなってきている。そこで色々なジャンルの演奏家を集めて音楽祭を開けば少しでもそれに興味をもってくれる人がいるはずだ。最初から規模の大きいことはできないにしろそういった活動を続けていくことがかなうならば私の野望は成就されると信じている。大学在学中にそういったイベントを地元で開く予定だ。

 最後に、住みたいと思う土地というのはオンリーワンであってはならない。世界には多種多様な町が存在する。そこから自分の住みたい町を探すのもいい。しかし自分の行動によってある街をより住みやすい街に変えることができるならそれも面白い。

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