サギタリウス賞

「気づかない環境破壊」

法学部法律学科 2年次生 坂口 慎也

審査員講評

 今年のテーマは「私の省エネ」であったが、このエッセイは、「気づかない環境破壊」というタイトルで書かれている。一昨年3月11日に発生した東日本大震災は、日本人に計り知れない影響を与えた。特に福島原発事故の問題は、現代の日本人に対して、いかに生きるべきかという、極めて重要な問題を提起している。
 本エッセイは冒頭に「ある環境にやさしいことは、ほかの環境にとっては暴力なのかもしれない。」と記し、あざやかな導入部としている。次いで、環境活動を行う団体の食器リユース・ボランティア参加の体験談を簡明に語り、社会貢献を為したことへの充足感を素直に表明している。しかし活動後に、ある問題を解決する手助けがほかの環境をないがしろにする場合のあることに気づく。
 そして、例として原発問題を取り上げる。代替エネルギーの惹起する問題点を指摘し、本当のエコとは、「他の環境に迷惑がかかりにくい環境にやさしい活動」であることを発見する。原発廃止論を批判しつつ、中立的な立場から結論として、ある環境を守るために起こってしまう他の環境への暴力をやめることが、真っ先になすべき環境保護活動であると提案している。
 身近な行いから説き起こし、鳥の目と虫の目という視点から、今後の環境保護活動への提案をするという、本エッセイの構成は無理がなく、読者に訴えかけてくるものがある。このエッセイは文体や表現も簡明かつ的確であり、優秀であると評価できる。

作品内容

「気づかない環境破壊」坂口 慎也

 ある環境にやさしいことは、ほかの環境にとっては暴力なのかもしれない。

 あの東日本大震災が起こってから、私はたびたびイベントで環境活動やエコ活動を行っている団体や人々を目にするようになった。あの震災の影響か人々の環境に対する意識は高まっていることがわかる。また、学生の間でもエコ活動を行う団体を作る学生やそのような活動を行っている団体のボランティアに参加する学生が出てくるなど関心が高まっている。かく言う、私も一度、環境活動を行っているeco-toneという団体の食器リユースのボランティアに参加したことがある。これはイベントでご飯を食べた参加者の使用済みの食器を一日中、立って、洗い続けるだけなので、ルーティンワークで大変疲れた。だが、そのとき、私は少なからず「自分はこの活動を通して何か環境に役立っている」と感じた。社会貢献により社会に認められた感覚というものだろうか?仕事で疲れても、何かの役に立っていると思うと不思議と嫌にはならなかった。もしかしたら、環境に限らず、ボランティアに参加する人々の多くは活動しているとき、こう思うのかもしれない。

 しかし、私はそのボランティアが終わった後、そのボランティア活動を振り返って、少し違和感を覚えた。それは使用済みの食器を洗うために、私たちは水を一日中使用し続けていたからだ。確かにあるものについてはエコになったかもしれない。だが、「水を大量に使っているこの活動は本当にエコなのか?」と私はその時そう思った。
 この活動に参加した人々の誰もが環境や自然にいいことをしたいと思って、参加しただろう。それは事実だろう。だが、私たちはある問題を解決する手助けをしようとして、ほかの環境をないがしろにしていたのだ。これは“優しさによる他への暴力”だ。これはきっと一番厄介な環境問題になると私は思う。いや、もしかしたら環境だけにとどまらない問題になるかもしれない。
 この問題には誰も気づかない。誰しもが自分は環境に役立つことをしていると信じている。そして、自分の活動でほかの何かが犠牲になっている、もしくは、そうなるかもしれないとは感じていないだろう。もし気づいても、「今はこの問題のほうが重要だから、それはひとまず置いておこう」と考える人もいるだろう。

 でも、そもそも環境問題に大きいも小さいもあるのだろうか?
 では、たとえば、原発問題を解決するから、ダムを造るために山、川、森を壊す。または、太陽光発電を増やすために電力買取制を徹底して、電力会社を圧迫し、破綻させる。少し極端な例を挙げたが、これらの問題は比べていいものか?私は別に水力発電も太陽光発電も批判していない。ただ、これを行うことでほかの問題を引き起こすエネルギー発電がはたして、“クリーンなエネルギー”と呼べるのだろうか?ほかの問題をないがしろにして、ある問題を解決することが本当にエコ活動だろうか?私はそうは思えない。

 じゃあ、エコってなんだろう?
 エコとは「他の環境に迷惑がかかりにくい環境にやさしい活動」じゃないだろうか。

 私はこのエコ活動を行うとき、環境の全体を見渡す“鳥の目”と、ある環境に集中して見る“虫の目”を持つことが大事だと思う。
 まず、初めに鳥の目のように環境に関すること全体を見渡して、このエコ活動、環境保護活動がほかの環境にどのような影響を及ぼしているか調べて、次に虫の目のように一つ一つの環境問題をじっくり見て、そのエコ活動、環境活動がいいものか見定める。これが環境問題に携わる上で必要なプロセスだと私は考える。
 とりわけ環境活動を行う団体はこの鳥の目を持つ必要があるのではないだろうか?
 どんなにいいことや理想の高いことを言っても、「ほかの環境のことなんて知らない。」、「もし問題が起こったら、その時考えればいい。」と言って、ほかの環境に迷惑をかけて活動をしていては意味がない。
 これは、今の原発問題に関する環境活動を行っている団体にも言えることだ。
 言っておくが、私は別に原発の賛成論者ではない。私も原発は好きではない。
 ただ、原発反対論者の中には、感情的に原発に反対している人がいる。そして、彼らは、この原発を廃止した後にどうするかの具体案を出さずに、原発全廃を訴えている。
 原発が廃止されれば、電力供給はどうなるのか?そこで働いていた職員の多くは首を切られることになるかもしれないが、彼らの再雇用はどうするのか?原発が財政の支えになっている地方もあるだろうが、そこの救済はどうするのか?
 「国が今まで原発を推し進めた結果、こうなったんだから、国が負担しろ!」という論者もいるかもしれない。でも、私たちも少なからず、原発を容認していた部分があったと思う。にもかかわらず、それを全部国だけに背負わせて、自分は悪くないと言うのはおかしくないだろうか?
 だから、彼らも物事を“鳥の目”で見る必要があると私は思う。

 本当に彼らが環境や社会のことを考えて、原発廃止を声高に叫ぶなら。日本人のためにと言うなら。彼らが本当の意味で環境のために活動をしたいなら。
 一度、彼らは、いや、私たちも自分たちが“やさしさによる他への暴力”を起こしていないか考える必要がある。
 もし、人々がこの暴力をやめたなら、私たちの周りから一つ大きな環境問題が消えるはずだ。
 ある環境を守るために起こってしまう他の環境への暴力をやめる。これが、真っ先に環境団体や私たち一般市民がするべき環境保護活動ではないだろうか?

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