入賞

「究極の自己満足」

外国語学部 英米語学科 4年次生 鳥越 尚吾

審査員講評

 筆者はエッセイの中で、「小説を書くという行為は、好きだから継続できるし、好きなことをするのは、人間にとって最高の贅沢である」と述べている。この作品からは、筆者が自分にとって小説執筆ということは、何を意味するのかと自問自答する様子が、鮮明に描かれている。さらに、筆者が、自分の価値観と意志を尊重し、充実した大学生活を送っていることがこの作品の情景描写から想像できる。つまり、筆者が自由な大学生活の中で、時間に流されずに自分の意志に基づき、しっかりとした姿勢で小説執筆に望んでいる様子が伝わってくる文章である。筆者の小説執筆に対する思い入れが強いというだけに、文章表現が非常に丁寧であり、繊細な情景描写を駆使している点も高く評価できる。

作品内容

「究極の自己満足」鳥越 尚吾

 私にとって、生きることは表現することだ。少し大袈裟な言い方かもしれないが、誰でも何かを表現して生きているし、きっと表現したい気持ちもどこかに持っているのだ、とも思う。表現の手段は人それぞれで、ある人にとってそれは音楽かもしれないし、絵を描くことなのかもしれない。髪型や服装といったファッションかもしれないし、ダンスや演劇なのかもしれない。

 こんな風に、手段の数は多いが、残念なことに人には得手不得手というものがある。好きなこと、得意なことを手段として見つけることが出来た人は、きっとそれを続けているのだろうけど、何かしてみたいが、自分にとっていい手段が見つからず、モヤモヤとしている人もいるかもしれない。見つけたけど挫折した、という人もいるだろう。幸いなことに、私にはギターを挫折した経験はあるけれど、長年続けている『自己表現』がある側の人間だ。さて、ここまで書けば、それが何かということを書かざるを得ないだろう。根気がない私が、何故か長い間続けていられる私にとっての自己表現の手段、それは小説の執筆なのだ。

 始めたのは確か、高校生の頃だった。きっかけは単純で、仲のいい友達が小説を書いていて、私も書いてみたい、と思った。ただそれだけだった。飽きっぽくて根気もない私が、よくもまあこれだけ長い間続けていられるものだと我ながら感心してしまうが、きっと私は環境に恵まれていたのだろうと思う。紙とペンさえあれば小説は書ける、なんて言葉も今は昔。パソコン一台さえあれば、小説の執筆なんて誰にでも出来る時代だし、何よりも私には小説を書く仲間がいた。後から書き始めた私は、当然先に書いていた友達よりも下手で、負けず嫌いな私は、何とか追いつきたい、と思って頑張れたのだと思う。彼らと深夜のレストランで、一緒に小説を書いていたのも、一度や二度の話ではない。

 しかし、私はこれについて一時期悩み、というか、疑問を抱いていたことがある。自分はプロを目指しているわけでもないし、自慢じゃないが一本の長編も完結させたことがない。こんなことを続けていて、何になるというのか。そう思いながらも、気が向けば新しい小説を書いて、友達に見せている自分がいる。一生小説を書き続けている自分も想像出来ないし、逆に小説を書かなくなる自分も想像することができなかった。

 しかし、そんな悩みを吹き飛ばしてくれたのは、また小説執筆の仲間の一人だった。彼は私よりも遅れて、小説を書き出したのだが、これがとにかく上手い。もちろん、粗さはあるのだが、私が初めて書いた作品とは比べ物にならない完成度であった。初めてでこれだけ書けるのか、と思っていると、みるみるうちに一本の長編を完結させてしまった。そして、一本完結させるかと思えば、また更に新しい作品に手をかけ、それも完結させてしまう。驚くべきことに、彼は社会人として働きながら、ここまでのペースで執筆を続けているのだ。

 その時にふと考えた。彼のモチベーションはどこから来るのだろう、と。彼も(今のところ)プロを目指しているというわけでもないそうだし、日々の業務に追われる彼が、なぜここまでのモチベーションを維持し、そして継続していけるのだろうか、と。だが、その答えは簡単だった。彼は、きっと単純に小説を書くのが好きなのだ。だから忙しくても執筆を続ける。多分、ただそれだけのことなのだ。書くのが好きだ、というのは彼の作品を読んでいるだけで伝わってきた。目を瞑れば、その光景が目に浮かぶような美しい情景描写や、まるで実在しているのではないか、と思えるほどに生き生きとしたキャラクター。彼が才能豊かなのは私も認めるが、それだけではない、ということもよくわかる。もっとも、考えるまでもないことだったとも思う。好きでなければ、わざわざ小説の執筆をする人間などいないのだから。そんな簡単なことに、今更気がつく自分の馬鹿さに呆れるばかりだ。

 そんな彼を見ていると、私の悩みなど、馬鹿らしいものだ、と気づくことが出来た。好きだから書く。それだけでいいじゃないか、と。飽きっぽくて、長編を完結させたことがなかろうと、後から書き出した友達よりも、才能が劣っていようとも、私が小説を書くのが好きだ、ということには変わりは無いのだから。だからこそ、根気のない私でも、長年続けていられるのだろう。

 しかしながら、長編を完結させたことがない、というのは、自分の中でも少し寂しいという気はしていた。人に最後まで見せられる作品も無いのに、趣味だと言い張るのはどうか、という後ろめたさはどこかにあった。だから、今の私の密かな目標は、一本の長編を完結させること。とにかく書き上げて、友達に、いや、友達に限らず大勢の人に見てもらおうと思う。その後どうするのかは、自分でもよくわからないけど、きっと小説は書き続けるのだろうと思う。そして、その先に見える目標が、『プロの小説家』であるなら、敢えてそれに挑戦するのも、悪くないのではないか、と今の私は思っている。気が早すぎる上に、身の程知らずな考えなのかもしれないが。

 もっとも、プロになる、ならない(なれない?)は、大きな問題ではない。なぜなら、今の私は知っているからだ。小説を書ける自分は、小説を書けない自分よりも、きっと豊かな人生を送ることが出来るであろう、ということを。好きなことをする。それこそが人生で最高の贅沢であり、究極の自己満足なのだ。

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