入賞

「武士道」

外国語学部 英米語学科 3年次生 鳥越 尚吾

審査員講評

 自分ではなかなかそうはなれないけども、でもそうなりたいと思う感情はまさしく「あこがれ」ですね。「あこがれ」というのは簡単なようで難しいテーマで、「本当にこれは憧れについて書いているのだろうか」と疑問に思わせるような作品が多かった中で、しっかりと自分の憧れについて書いてある作品でした。ただし、伝えたいことが必ずしも最初から絞り込めていなかったような印象を受けます。織田信長から、侍、そして武士道へというのは、読者にとっては必ずしもまっすぐにつながるものではありません。最後に強調されている武士道の精神性に絞ってはじめから書かれていたらもっとよくなっていたでしょう。

作品内容

「武士道」鳥越 尚吾

 「お父さん、織田信長って、どんな人?」確か、小学校の二、三年生の頃だった。漫画に出てきた、日本人ならば知らない者はいないであろう有名人の名前を、当時の私は知らなかった。小学校で歴史を習ったのは6年生だったので、それ自体は無理もないことだ。「戦国時代の凄い人だよ。今度本を買ってあげるから、読んでみたらどうだ?」当時、私は親の薦めで、様々な偉人の、子供向けの伝記を読んでいた。最初は嫌々だったが、元々本を読むのは好きな方だったので、伝記を面白い、と思い始めていた私は、喜んで父の提案を受け入れた。数日後、学校から帰った私を待っていたのは、既に馴染みとなっていた、ポプラ社の伝記シリーズ、『織田信長の巻』。母が本屋で買ってくれていたのだ。信長がどんな人なのか、何をやった人なのか早く知りたかった私は、早速その本を読み始めた。思えば、これが私の「憧れ」に出会ったきっかけだった。「それ」は幼かった私の心をがっちりと掴み、23歳になった今も捉え続けて離さない。私の憧れ、それは、日本の歴史や文化を語る上で欠かせない存在、「侍」である。

 私は侍が好きだ。「私の憧れ」と言えば、間違いなくこれしかない。おかしな言い方になるが、私はなれるものなら侍になりたい。しかし、もちろん現在日本に侍は存在しないことを知っているので、憧れにとどまっているのである。

 私が侍を初めて知ったのは、先述の通り、織田信長の伝記を読んだ時からだ。当時、私が侍に対して初めて抱いた感想が、「侍ってかっこいい!」だった。我ながら子どもっぽい。しかし、何故か男はそういった暴力的なものに憧れるものだ。私は、鎧兜を身にまとい、日本刀を振り回す侍を、例えば仮面ライダーなどといった、ヒーローを見るような目で見ていたのだ。

 私の侍への憧れの一部として、そのような外面的で、俗っぽい理由があることは否定しない。だがもちろん、それだけが私が侍に憧れる理由である、というわけではない。私が本当に侍に憧れているその理由、それは彼らの精神性である。すなわち、「武士道」と言われるものだ。

 「武士道」と言っても、その概念は時代によって様々であり、実はこれと言った定義があるわけではない。しかし、漠然としたイメージとして、「正義」、「自己犠牲」、「禁欲的」、「克己的」、「正々堂々」などという言葉が浮かんでくるのではないだろうか。私はそういった侍たちのそういった精神性に、強い憧れを抱いている。

 なぜ、そんなに侍に憧れるのだろうか。恐らくそれは、決して彼らのような考えを、私は持てないということを知っているからだと思う。というのも、侍が存在していた時代と、現在とでは価値観や環境が違いすぎるのである。私が好きだからという理由だけで、侍の禁欲性や自己犠牲の精神を持つことなど、到底不可能であろう。私はそのような教育を受けてきていないし、事実、何か命をかけられるものがあるか、と問われたら、はいと答えることは出来ない。彼らの精神を、美しいと思う一方で、決して自分には届かないとわかっているからこそ、私は侍の精神性に強く憧れを抱いているのだと思う。

 しかし、現在において、「自己犠牲」や「武士道」、などという言葉を使うと、変な人だと思われるどころか、下手をすると右翼扱いされかねない。確かに、武士道という概念は、第二次世界大戦において、兵士を戦争に駆り立てるために大いに利用された。「天皇陛下のために、死ぬことこそが名誉」と信じ、多くの兵士が、その若い命を散らせた。そういった歴史的な事実は確かにある。

 しかし、だからといって、それが武士道の概念そのものを否定する理由になるだろうか。何かのために、自己を犠牲にすることは、悪いことなのだろうか。「正義」の心は現在においては、時代遅れなのだろうか。今年、WBCにおいて、日本代表チームは、「侍JAPAN」と呼ばれていたが、彼らは「禁欲的」、「克己的」に努力し続けた結果、日本を代表するほどの選手になれたのだろうし、「正々堂々」と戦い、見事、二連覇を果たしてくれたではないか。

 武士道には、間違いなく時代遅れの、ネガティブな側面が存在するし、その側面が利用されたと言う悲しい事実も存在する。しかし、そういった概念は時代の流れによって淘汰されていっているように思う。しかし、時代を超えて、通用する価値観もあるのである。何か、困難や障害にぶつかったとき、それを乗り越える糧として、そして、自分自身を高めるためのものとして、私も武士道を持っていたい。そういった意味で、私の憧れは、侍なのである。

 私は、心の底から、「日本に生まれてよかった」と思う。もちろん、全てに満足しているわけではないが、侍たちの生きたこの国に生まれたことに、不満は無い。私は、外国語学部の英米語学科の人間である。英語圏の人と、互いの文化について話す機会があれば、私は武士道について語りたいと考えている。彼らの心の美しさと、それを私は誇りにしている、ということを。

 そして、侍たちのように、彼らのようには決してなることが出来ない、とわかっていながら、武士道を基に、私自身、心と体を磨き続けようと思うのである。

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