優秀賞

「センダンの大樹」

経済学部 経済学科 4年次生 克善

審査員講評

 この作品の特徴は、「あこがれ」を大樹(センダンの木)に投影したことにある。小学生の頃の記憶を、大学生である現在の自分の想いに絡ませることで、その心情を表現している作品である。
 小学校卒業からおおよそ10年を経て、大学を巣立とうとしている作者が、故郷を散策した際、何事もなかったように、当時のままの姿で凛とそびえるセンダンの大樹に再会したことで、社会人として生きるこれからの作者の心構えを、平明な文章でわかりやすく表現している。この作品で作者は、時間の経緯のなかで、変わりゆく想いと変わらない想いを、無意識のままやり過ごせるような微細な事柄に焦点をあて、作者の成長の過程を重ね合わせながら、現在の作者の想いを集約させている。
 誰しもが持つ幼い頃の記憶を、「あこがれ」によって照射した秀作である。

作品内容

「センダンの大樹」 克善

 「あこがれ」とは何だろうか。私が考えるあこがれは二つある。一つは時とともに変わりゆくものだ。そしてもう一つのあこがれは普遍的に変わらないものだ。これは、直感的には分かっているもののあまり真剣に考えないものである。つまり前者の方が一時的なため強く印象に残るが、後者は普段はあまり強く意識しないものである。

 そして、私の憧れの中の大部分を占めるものは時とともに変わりゆくものである。例えば、「大人」だ。私が子どもの頃は、お金も持っていて、車も持っている、行きたい所にだって簡単に行けてしまう「大人」に強いあこがれを持っていた。しかし、高校生、大学生になるにつれて「大人」というあこがれはもうどこかに消えてしまった。それは自分自身がその大人に近づき、子どものころの視点から大人への視点と変わってきたからだと思う。このあこがれは自分自身が成長し、それに近づくにつれて次第に薄くなり、やがては消えていくのだ。

 私の憧れはほとんどがこのあこがれだと思っていたが、最近見たある光景が私を若いころの気持ちに戻らせ、直感でしかなかった「あこがれ」を言葉として私に感じさせた。そんな気持ちを感じさせた過程から今の気持ちを書き綴っていきたい。

 私の体がまだ小さな小学校のころは何もかもが大きく見えた。グランドにある鉄棒、サッカーゴール、滑り台、学校を囲むフェンスだって自分の二倍近くの大きさはあった。その中でも当時最も大きかったものは、校庭にそびえ立つ巨樹だった。その巨樹はセンダンの樹と呼ばれていた。その幹の大きさと言えば、反対側に子ども三人いても隠れてしまうぐらい大きかった。そのため私はかくれんぼなどでは、毎回のようにそこに隠れては、捕まらないようにしていた。またその樹は夏には葉っぱが枝いっぱいに生え一層存在感を増した。私はその樹がずっと好きだった。ある時、美術の時間に校庭に出てセンダンの樹を描く時間があった。私は絶対に皆に負けたくないと思い、本当に一生懸命書いた。センダンの樹の根は幹を支えるために太く、鋭く生えていたので力強く描いた。幹はどんなことがあっても曲がらず、折れないような真っ直ぐ伸びていたので、より目立たせるように描いた。そして太陽の日を浴び、青々と繁る葉は一枚一枚を繊細に描くように丹念に描いた。

 その時間は、私にとって最も夢中になれる時間だった。その結果、念願かなって卒業式のパンフレットの表紙になった。センダンの樹は六年間私と共に過ごし、いつも見守り続けてくれた本当に大好きな樹だった。

 しかしながら、私が中学生になり、高校生になり、月日が経つにつれてほとんどその樹を見る機会も減っていった。そして大学生になると私は京都へと引っ越した。時々、実家には帰るが、車を使うようになってからはほとんど地元の景色や建物に注意を払って観ることもなくなった。

 しかし、そんな今年の夏休みの終わりのころ私は久々に実家に帰っていた。私は久々に何の予定もない一日だったので、最近の運動不足を解消しようと一人で散歩をすることにした。私は実家で飼っているこれもまた運動不足の犬と一緒に散歩に出かけた。そうしてゆっくり歩いているとすごく懐かしい気持ちになった。家の周りにある夕日に染まる田圃の色や、稲を刈り終わった後のにおい。古びた建物や、田園から聞こえてくる鈴虫の鳴き声。京都とは違った和んだ空気を感じていた。そうしているうちに私は家から随分遠いところを歩いていた。三キロぐらい歩いただろうか、そばには昔通った小学校が見えた。私の体は無意識のままに小学校の方に進んでいた。小学校を目の前にし、さらに懐かしい気持ちになったので、小学校の校庭に入ることにした。

 その時、私はいろんなものが変わったことに驚いた。校庭の周りのフェンスは自分より小さくなっているし、あんなに背を伸ばしてやっとのことで届いた鉄棒はもう胸の辺りまでになっていた。サッカーゴールは手を伸ばすと上のバーにも軽々と届く。見るもの全てが小さくなっていることに気付いた。こんなに何もかも変っているのなら、センダンの樹だって当然変わっているはずだと思い、センダンの樹のところに行った。しかし、そのセンダンの樹の光景を見た時の気持ちは小学校時代と変わらないものだった。私の背も見る目も変わっているはずなのに、それは間違いなく昔見たままの感じたままの樹だった。幹は太く逞しかった。そして枝いっぱいに生えた葉っぱがセンダンの樹をダイナミックに形作っている。地面に深く伸びる根を張り、そこから真っ直ぐに伸びた強靭な幹、そして枝を作り出し青々とした葉を繁らせる。子どもの時、美術の時間と変わらないセンダンの樹の印象がその時言葉として表れた。その瞬間、これはまぎれもなく私の「あこがれ」の存在であったことに気が付いた。

 私の中の普遍的な「あこがれ」。それは、普段は強く意識はしていないものの、何かの拍子にふと記憶から蘇り、私に多くを学ばせてくれる大切な存在である。

 私は夏休み前にようやく就職活動を終えた。その頃から自身はどういった社会人、「大人」になっていくのか、なっていきたいのかを考え始めていた時期であった。

 しっかりと何があっても支える根を張り、真っ直ぐに太く丈夫な幹を伸ばす。それが美しく壮大な葉を繁らせる。センダンの樹は、私が今抱いている問題のヒントを与えてくれたように感じた。

 もうすぐ夏が終わり、秋が来る。夏が終わるとセンダンの樹はまた葉の色を変え、紅葉を迎える。私自身も学生から社会人へと変わる準備を始めようと決心し、センダンの樹を後にした。

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