サギタリウス賞

「あこがれと夢と」

経済学部 経済学科 1年次生 橋爪 明美

審査員講評

 幼い頃に身近な人から受ける影響は、計り知れないものがあります。このエッセイは、それを「あこがれと夢と」ということで、感受性豊かに表現したものであるといえます。多くの審査員は非常に高い評価をしました。その内容というよりも、心の動きがうまく表現されていた点に、高い評価が与えられました。とくにお母さんの言葉を効果的に使って、内面の葛藤が素直に語られているので、読者に強い印象を残すことができたと思います。
 あこがれは直線的に意欲や夢へとつながるのではなく、その間に心の葛藤があることをアピールできたと思います。あえて付け加えるとすれば、段落を短めにしてメリハリを付ける方が、より強く読者に訴えかけることができたと思います。
 是非、近い将来に小学校の夢が現実となる日の来ることを願っています。お母さんが言われているように「やってみなくちゃ分からない」のですから。

作品内容

「あこがれと夢と」橋爪 明美

 小学校の文集に、私はこう書いていた。つたない作文の後、将来の夢の所に一言。

 「小説家になりたい。」

 私がそう漠然と思うようになった理由は、母にあった。自宅の部屋の一角にある、母のテリトリー。それは大きな本棚だった。母は、昔から本が好きだった。そこにはいつも大量の本があった。文庫本や厚い単行本が隙間無く並んで、入りきらずに本棚の上にまで乗せられている様子は、なかなか印象的だった。母が特に好きなミステリー、お気に入りの作家のエッセイ、文庫化するまで待ちきれずに揃えてしまった単行本。その内床が抜ける、と揶揄する私に、ふと思い出したように整理をしてみては、もう読まないであろう本を古本屋に売りに行っていた。けれど売ったその場でそれ以上の量を買ってきて、苦悩する母に呆れた目を向けたのも、一度や二度ではない。

「本当に、今月はもう買わない。見るだけだから。」

そう言っておきながら数十分後に本屋でレジに並ぶ母の背中も、同じくらい目にした。本棚にはそういった新刊書だけでなく、母が高校生の時に買った本なども置いてあった。その本棚が、母の積み重ねてきた本との年月を物語っているようで、私は好きだった。それは言うなれば、母の歴史だったのだ。いつかあの本棚の本を読んでみたい。幼い頃の私は、口には出さなかったが、いつもそう思っていた。母の本棚に触れることで、私の知らない母が過ごした時間を知ることができる、そんなことをどこかで考えていたのかもしれない。兄弟がおらず、母親に甘えてばかりだった私は、自然と母の好きなものに興味を持っていたのだ。それから母は幼い私に絵本を読み聞かせ、誕生日やクリスマスには自分の薦める本をプレゼントしてくれた。私はそんな母の影響を受けて、成長すると共により本を好きになっていった。ある程度の年齢になると、母はあの大きな本棚から、私の気分や好みに合わせて本を選んで貸してくれた。初めて母の本棚から本を借りた時は、自分が正式に母の「読書仲間」と認められたようで、とても嬉しかった。母の薦めてくれる本はどれも面白く、私は母と、母の本棚に、一種のあこがれを抱いていた。そのあこがれは形を変え、私はいつしか母をあっと言わせるような、そんな素晴らしい物語を自分で書いてみたいと思うようになっていた。それを後押しするように母は、今思えば自分が行きたかったのもあったのだろうが、小学校一年生の私を近所の図書館に連れて行き、手作りの絵本を作る講座に参加させてくれた。絵を書いて、文字を書いて、想像を膨らませる楽しさを知ったのは、あの時だった。結局その講座には毎年行くことになり、一冊ずつ増える手作りの絵本は、今でも私の宝物だ。それから小学校の高学年になった頃、落書きを溜めていたノートに、思いつくままに横書きで文字を綴った。今思い出すと内容は滅茶苦茶で、とても物語と呼べるようなものではなかった。けれどとにかく私は文字を書いた。自分の中で生まれた登場人物が、動き、笑い、悲しみ、そして成長していく。そんなことまで盛り込めるほど上手く書ける訳ではなかったが、想像が様々な形に広がっていく感覚は、今まで経験したことがない楽しさだった。中学生になり、時折パソコンで打ち出すこともあったが、やはり基本的にはルーズリーフに横書きで文章を書き殴っていた。頭の中で描かれる想像の幅は更に広がり、その頃既に私が書いた物語は、もうかなりの量になっていた。そして書き上げた文章は、何度か推敲されて私しか触らない机の中に眠っていく。誰の目にも触れることない、その場所に。量はどんどん増えていたにもかかわらず、私はただの一度も、それらを母に見せたことはなかった。

 正確にいえば、一度二度はあったのかもしれない。けれどそれはずっと昔、それこそ小学校の教室でノートに綴っていた頃の話で、自分自身あまり覚えていなかった。見せない理由、それは単に気恥ずかしかったとか、そんな感情ももちろん含まれていた。けれどそれだけではない。それだけなら、うっかり学校の教室で大っぴらに書いていて、同級生に見せろとせっつかれた時と変わらない。私はただ、怖かったのだ。私の倍、いやそれ以上に本に、文字に触れてきた母に、鼻で笑われることが。センスのない、凡庸で、つまらない文章だと、一蹴されてしまうことが。そんなことはないのかもしれない。母は決して理不尽に否定を突きつけるような人ではないし、私の足りない部分はあくまで論理的に指摘してくれるだろう。私もそれを望んでいた。けれど、もし、もしそう言われてしまったら?自分の書くものに自信がない訳ではなかった。それでも私は怖かった。要するに、弱かったのだ。私はその弱さをどうすることも出来ずに抱えたまま、高校、大学と進み、そして今に至っている。文章は、相変わらず増え続けていた。このままでは先に進めない。そう思いながらも、なかなか思い切ることができずにいた。けれど私はある時、二回、三回と推敲を重ねた文章を、勢いのまま離れた地元にいる母に、メールで送ってみた。それは、ここ最近で一番の自信作だった。送った後、すぐに後悔し始める自分を叱咤する。ここで退いてしまえば、二度と変われないと思ったのだ。面と向かって見せる前の段階、そう言い聞かせて母の返信を待った。返ってきたメールには、一言。

「面白かった。」

目にした瞬間、思わず声が出た。涙も出そうになった。

 小学生の頃描いた夢は、まだ私の中にある。ふとした時に思い出す度、私はせつなさを覚えた。あの頃、何の気兼ねもなく口に出せた夢。成長するにつれ、自分の力のなさを思い知り、現実を見て、目を背けていた夢。ずっとあこがれていた母に自分の書いた文章を見せて、私のずっと抱えていた弱さを克服することはできた。それなら、と思いかけて、私はいつも胸が苦しくなる。口に出すことが怖くて、怖くて、でも心の中にそれはある。消えてはくれない。今こうして文字を書いている時にもふと現れ、私を支配する。あこがれ。思えば思うほどせつなくて、苦しい。一本の線を越えることがたまらなく難しく思える。吐き出すように私は母に打ち明けた。母は、ただ言う。

「やってみなくちゃ分からない。」

 幼い頃から私が思うあこがれは、ただひたすらに距離を感じるものばかりだった。母の、長い時間に培われた読書の経験は超えられない。私が口に出せない職業は、ただ遠くて、想像ですらはっきりしない。けれどその二つは確かに今の私を形成していて、支えてくれた。焦がれるものが一つもなければ、私は弱いままで、何もめざすことなくつまらない人間になっていただろう。せつなく、けれど愛しい感情を抱えて、私は前に進む。やってみなくちゃ、母の言葉が私の背を強く、温かく押してくれたから。

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